
2025年 4月 19日
日置市の黒川神社(能勢権現社)にお参りしてきました。
田之頭吹上(県道296号)線沿いに流れる二俣川の河床は阿多火砕流堆積物(At)。神社周辺の沿岸は四万十層群のうち上部佐伯亜層群の砂岩・泥岩(S2a)で、周辺には非溶結の入戸火砕流堆積物(It)が広範に分布しています。この地域では浸食により下位の四万十層群が露出しているようで、河岸北側の斜面に形成された大小二つの洞穴に祀られているのが黒川神社です。何れの洞穴も岩陰遺跡で、かなり時代のついた資料となるものの、1952年から67年にかけて実施された発掘調査の計測結果*に拠れば、当時の規模は社殿の祀られる西洞穴で入口の幅13.3m、高さ6m、東洞穴は各々11m、4.3mで奥行は8.4mとなっています(西洞穴の正確な奥行きは崩落のため不明ですが、東洞穴比で格段に規模の大きい遺跡であることが報告書図1の地形図から明らかです)。
*鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査告書(222)“黒川洞穴(日置市吹上町永吉坊野)”,県内遺跡発掘調査等事業に伴う河口コレクション発掘調査報告書(7),2024年3月1日,鹿児島県立埋蔵文化財センター
残念ながら崩落の危険があるため現在は立入りが禁止されており、詳細を観察することはできません。火山ガス、水蒸気の吹抜けパイプの有無も柵の外からは確認できませんでした。かつてここにあった寺の小坊主が門前の淵で溺れ、これを弔うために祀られたと伝わる兒の塔の存在も不明です。嘉保三年(1096年2月3日~97年1月9日)一乘妙典讀誦僧覺尊の銘があったそうで、県内最古の供養塔らしいのですが、これを支持する文献にも行当っていません。紀年銘を確認することができたのは参道の仁王像のみで、時代は下って享保十乙巳四月吉日(1725年5月12日~6月10日)、濱田宗兵衛によって寄進されています。
1936年の失火により失われてしまった黒川権現社の棟札には “文明三年二月十六日造立”とあったそうですから西洞穴の社は1471年3月16日に創建されたようですが、本尊は当初傍らの石洞に祀られ、崩落によって東方100m辺りにあった洞窟に遷座した後、現在の西洞穴に移されたという記録があります。
むかし當邑坊野門の農夫、肥後州より奉じ來りて、初め當社の傍にある石洞の中に安置せり、かくて洞内大石崩れ落つ、こ丶に於て卯の方、一町程に當れる大岩窟に遷座ありしが、其後此處に奉祀せしといふ、社内に文明三年、二月十六日、造立の棟札を納む、
三國名勝圖會 巻之八 永吉
“當社の傍にある石洞”は小型の東洞穴でしょうか。“卯の方”ではなく逆方向の西北西に当りますが、緯度、経度データから計算して黒川神社から90m程度の位置にあるのが元権現洞穴。名称が名称だけにいろいろと想像を巡らせてしまいます。こちらもも岩陰遺跡で発掘調査当時の規模は入口幅21.65m、高さ21.5m、奥行き17mの“大岩窟”でした。但し報告書の“図47 元権現洞穴トレンチ位置図”に拠れば当時既に洞穴面積の50%程度が南西側で落盤石に塞がれており、現在は土砂に埋もれて内部を窺うこともできない状態となっています。
安全性の面からの制約はあるのでしょうが、最後の発掘調査からもうすぐ60年を迎えようとしながら手を拱いているしかないという状況を何とか打開して頂きたいと願うばかりです。
折角の遠出ですから、少し南に下りて堀川沿いに和田地区を抜ける道を辿ってみることにしました。下の画像は金峰山さぁの足跡。地質図ではこの辺りの河床は非溶結の入戸火砕流堆積物(It)に覆われていますが、溶結しているような印象を受けます。
名称の由来は釣りをしていて釣果の無いのを不審に思った金峰山の神様が、釣糸に悪戯をしていた河童を驚かせ心を入れ替えさせるために舞い降りた際の痕跡という伝承。その後、河童の被害はなくなったという、指宿でいえば開聞の神渡の石と鏡池の河童を併せたようなお話です。
ここをもう少し東に進んだところにあるのが夜明し岩。たまたまここで野宿をした二人の旅人が、人の手が入ったものか自然の造形か、はたまた神の思し召しかを巡って話し込むうち夜が明けてしまったという、別名 夫婦岩です。10日ほどの間に熊本と鹿児島で夫婦岩を拝むことになるとは思ってもいませんでした。
地質図では非溶結の入戸火砕流堆積物(It)と四万十層群のうち佐伯亜層群の砂岩・泥岩(S2a)の分布の境界となる微妙な位置で、阿多火砕流堆積物(At)がプロットされる場所からは離れているのですが、形状、岩相の何れからも河添渓谷の岩体を連想してしまいます。
今のところ黒川洞穴、金峰山さぁの足跡、夜明し岩について地質面から分析した文献が見当たらず、納得できるだけの結論に至るまでいろいろと調べてみようかと思っています。
2025年 4月 12日
今日は日置市教育委員会 下小牧潤 氏 による雪窓院遺構の説明会でした。
鹿児島県教育委員会の教育委員会月報165号(1970年5月25日,国立国会図書館デジタルコレクション)に掲載されている日置教育事務所 日置光孝指導主事による伊集院中学校の学校紹介に“校門の石材は「天正八年」の文字も読める伊集院の雪窓院(島津義久公の母の菩提寺)の石材が町公民館の庭にあったのを竹之内校長がもらいうけて、四十一年の創立二〇周年記念で建設したものである”とあります。
説明会の配布資料には鹿児島縣史跡名勝天然記念物調査報告書(1929年)にある“この座禅石の前に古風の石橋あり、その石材は花崗岩にして橋の側面に「天正八年 宗的寄進」の八字を刻す、この石橋は旧時雪窓院本堂の前の溝川に架けたるものなりしといふ(有川群五郎)”という記載が紹介されており、いつしか存在が忘れ去られていたものが、今回、中学校で3月に実施された“考古学調査体験”で確認されたとのことでした。“八字を刻す”とありますが、実際の紀年銘は“天正八年庚辰三月吉日(1580年3月26日~4月23日)”ですから全14文字。雪窓院建立の永禄十年十二月(1568年1月10日~2月8日)の12年後に奉納され、386年を経て1966年に再利用された石橋です。
千秋山雪窓院 大田村にあり、地頭仮屋より戌亥方三町余、曹洞宗田布施常珠寺の末にして、開山二株林和尚、本尊正観音 坐像作者未詳、永禄十年丁卯雪月、貫明公建立し給ひ、母堂雪窓妙安大姉 入来院弾正重聡女 天文十三年甲辰十五日卒去 の菩提寺となし、田百石を寄附し、霊牌を安し、廟所を建立す
薩藩名勝志
鹿児島県史料刊行会,2003年3月
桁橋としては信玄堤沿いの竜王河原宿の免許屋敷に架けられていた永禄四(1561)年の遺構と同時代のものです。薩藩名勝志の挿絵には橋石を組合わせた形状の構造物が複数描かれていますが、中央部が摩耗し表面に縦方向の擦痕が残っていることから、単独で架けられていた可能性もあるのではないかとのことです。両側に刻銘がありますし、挿絵の板橋にはどちらかといえば校名と
“美しき魂”の石板が埋め込まれた奥の石材が利用されていたような気もします。花崗岩ではなさそうです。
鹿児島縣史跡名勝天然記念物調査報告書にある“座禅石”は雪窓院住持の修行の場としてよりも雪窓院を創建した貫明(島津義久)公の剃髪石として、公が秀吉の島津征伐に際して和を請いに川内泰平寺に向かう前の逸話で知られます。薩藩名勝志の挿絵からは本来の位置を確認できないようで、現在は雪窓院仁王像の遺構と共に銀天通りが城山隧道にかかる前の路傍に残されています。
折角の機会ですから、説明会の後に妙円寺跡にもお詣りしてきました。松齢(島津義弘)公菩提寺でしたが廃仏毀釈運動により廃寺となり、跡地には徳重神社。公の関ヶ原からの退き口を偲ぶ妙円寺参りの主要舞台です。
法智山妙円寺 徳重村に在り、地頭仮屋を距ること子方七町余、曹洞宗丹波永澤寺の末にして、開山石屋真梁和尚、本尊釈迦如来、左右薬師阿弥陀 三軀共に作者未詳、初め石屋遍歴の時長州に於ひて、法智山妙円大師 長州の国守某の女といふ の因縁によて、長州の国守石屋の徳義を感し使を当国に遣ハし、領主伊集院大隅守久氏に請ひ寺を建立し、石屋もて開山とし、山を法智と号し、寺を妙円と名つけ、大姉の菩提寺となす、即明徳元年庚午の歳也、
・・・<中略>・・・
慶長九年邦君松齢公の菩提寺となし給ひ、殿堂門厨尽く新たにし、肖像を安置して田を投し永世香花の需に充、
薩藩名勝志
鹿児島県史料刊行会,2003年3月
創建は1390年、義弘公菩提寺となったのは1604年。廃寺となった後、1880年に現在の位置(徳重521番地)に再建されました。徳重神社から現妙円寺に向かう参道には旧妙円寺の山門近くに廃棄されていた阿弥陀如来像が祀られています。
2025年 4月 8日
縄文の森をつくろう会先輩会員との遠出が都合で見送りとなり時間が空いたので、田楽屋さんを訪ねて熊本まで。鹿児島では田楽を探してもなかなか行当らず、ネットで田楽を検索すると両棒餅が表示される土地柄です(読みは二本差しを指すリャンコと同源かと思います)。
向かう途中に馬見原を通ったので、5年前の橋巡りで取りこぼしとなっていた岩永三五郎の下番の眼鑑橋の画像を確保。“岩永三五郎”のページの“熊本県に残る岩永三五郎の拱橋”の項に加えて内容を補正しました。
画像はすぐそばにある馬見原の夫婦岩。画像右側の岩の横に見える祠には秋葉山が祀られています。溶結した阿蘇火砕流堆積物で、阿蘇3でしょうか。新しい下番橋の袂で非溶結の露頭も確認できます。
2025年 01月 15日
地獄の釜の蓋の開く16日を控える鰻地蔵の御縁日に“鰻詣ぇ”に出かけました。“鰻池マール”のページの“鰻地蔵”の項に画像と動画を加え、露店での買物で“加世田鍛冶”を思い出したりしたことで、多少加筆もしています。
お詣りのついでに現状を確認するために窯跡にも立寄ってみたのですが、昨年の降雨と台風の影響でしょうか、右の画像のように小振りの土嚢で押さえられてはいるものの、少し損壊が進んでしまったようにも見えます。
Copyright © All rights reserved.