かつて稼行していた指宿の金坑道の湧水処理が困難となる状況に陥った背景には、我が国の産金業が国策の犠牲となったこともあります。このページでは、第二次大戦開戦を控えての産金奨励策、国際調達が困難となるに至る孤立の中での傾斜生産体制採用という国策の変更に翻弄された産金業の凋落を簡単に振り返ってみようと思います。
文中の主な法令には、年表で国立公文書館デジタルアーカイブ、国立国会図書館デジタルコレクション(官報)で公表されている原文へのリンクを設定しています。
年 | 月 日 | 第一次大戦勃発から金本位制復帰まで |
1914 | 07/28 | オーストリア=ハンガリー、対セルビア宣戦布告(第一次世界大戦勃発) |
1917 | 09/07 | 米 金本位制停止(金輸出禁止令公布;10日実施) |
09/12 | 金輸出禁止(金貨幣・金地金輸出取締等に関する大藏省令第二十八號公布施行) | |
1918 | 08/26 | 金製品・合金の輸出取締に関する大蔵省告示第百三十二號 |
11/11 | 聯合国 対獨休戦協定調印(第一次世界大戰終戦) | |
1919 | 04/01 | 英 金本位制停止(関税法により金を輸出禁止品目に指定) |
06/09 | 米 金本位制復帰(対露を除く金輸出解禁を発表;10日実施) | |
1920 | 12/31 | 英 金銀(輸出管理)法公布 |
1923 | 09/01 | 関東大震災 |
1925 | 04/28 | 英 金本位制復帰(金輸出解禁) |
05/13 | 英 金本位法公布 | |
1929 | 10/26 | ニューヨーク株式市場急落(Black Thursday) |
11/21 | 1917年9月12日大蔵省令等の廃止(1930年1月11日施行大藏省令第二十七號公布) | |
1930 | 01/11 | 金輸出再開(1929年11月21日大蔵省令施行) |
第一次世界大戦勃発後、欧州各国は相次いで金本位制を停止。英国も金銀貨・地金を戦時輸出禁制品に指定し、実質的に同様の体制を採りました。これにより各国の国際取引決済はニューヨークに集中しますが、ドイツ潜水艦の無差別攻撃によって米国旅客が犠牲となったことにより 1917年4月6日、対独宣戦を布告(オーストリア=ハンガリーに対する宣戦布告は12月11日)。9月7日に金本位制を停止したことで、世界の金市場は機能不全に陥ります。
米国は終戦から 7ヵ月後の 1919年6月、金本位制に復帰しますが、動向が注目されていたのはむしろ英国でした。戦時中の英国の金輸出禁止措置は法的な裏付けをもたず、これが正式に法制化されたのは 1919年4月と、米国が金本位制に復帰する 2ヵ月前。禁輸は 25年末までの戦時時限立法である 20年金銀(輸出管理)法によって継続され、その後の物価環境の安定から通貨水準も回復し、金平価に近づいたことで、金銀法の施行期限満了を待たず、25年4月28日に金の輸出が解禁されました。欧州諸国も相次いでこれに追随する決定を下します。
世界的な金本位制への回帰の潮流の中、日本は解禁に消極的でした。当時の政策当事者の発言等より推して、中国のインフラ拡充需要を見込んでいたことから、そこでの地盤を確保するため、金保有高の減少を避ける判断が採られた可能性が高いのではないかと考えられます。加工貿易によって支えられる経済構造をもつ以上、対中輸出の増加を図るためには、原材料の輸入が求められます。当時の輸入為替の決済は、これが提示される現地の正金銀行の保有する在外正貨によって保証されていました。“正貨”は狭義には日本銀行の金準備を指しますが、広義には政府、日本銀行が保有するこれに代用可能な性格をもつ資産を含み、在外正貨を適正水準に維持するための手段が、国内からの金の現送です。
大戦後、戦場となった欧州では生産能力が縮小。深刻な不況と物価上昇に悩まされる一方で日米の国際収支は出超を記録。日本の在外正貨残高は 1919年には 13億4,310万円に達しています。
日本が金本位制に復帰するのは 1930年1月11日。日銀総裁も務めた井上準之助が大藏大臣に任じられた濱口雄幸内閣(29年7月2日~)の決断です。井上は、緊縮財政、内需抑制による生産性の低い事業者の淘汰を通じて国際競争力の向上と対外収支の改善を実現し、通貨価値が金平価水準まで回復し、これを維持することのできる経済体質が備わったと判断し得る時期を待って金の輸出を解禁したいと主張していました[1]。管理通貨制度下での在外正貨の減少は通貨の安定性を損ない、輸入インフレ圧力の拡大をもたらし続ける、という認識です。
ただここに至る間に状況は大きく変化していました。大戦特需の反動が生じる中、20年には数次の立会見合わせに至る株価の暴落に端を発した戦後恐慌局面に入ります。23年9月1日には関東大震災が発生。復興需要もあり、国際収支は入超基調が続きました。世界需要の縮小は 29年10月26日のニューヨーク株価暴落を契機に決定的なものとなります。
在外正貨の残高は、28年末までに 1億1,432万円までに縮小していました。金本位制復帰への思惑が発生した 29年には圓買圧力に対抗した外貨買いから一時的に回復しますが、それでも 2億5,501万円と、ピーク時の 1/5弱に過ぎません。
年 | 月 日 | 国際関係が緊張していく中での産金保護 |
1931 | 09/18 | 柳条湖事件(満州事変勃発) |
09/21 | 英 金本位制停止(金本位改正法公布施行による金兌換停止) | |
12/13 | 金輸出再禁止(大藏省令第三十六號公布施行) | |
12/21 | 金製品・合金輸出再禁止(大藏省令第三十八號公布施行) | |
1932 | 03/04 | 金地金買上要綱 |
02/09 | 血盟団事件(井上準之助暗殺) | |
05/15 | 五・一五事件(犬養毅暗殺) | |
08/25 | 金買上及正貨準備補充方策の件 | |
1933 | 02/24 | 国際連盟 満州撤兵に関する対日勧告可決 |
03/27 | 國際連盟脱退の詔書発布 | |
04/19 | 米 金輸出停止(金本位制停止) | |
06/05 | 米 金約款廃止法成立(金本位制廃止) | |
1934 | 04/07 | 日本銀行金買入法・日本銀行金買入規則(大藏省令第十四號)公布施行 |
1936 | 02/26 | 二・二六事件(高橋是清暗殺) |
濱口首相襲撃事件(1930年11月14日)の後、第二次若槻禮次郎内閣(31年4月14日~)でも、井上準之助は蔵相を務めます。若槻内閣は、挙国一致内閣組成をめぐる不協和音により 31年12月13日に総辞職を余儀なくされましたが、それまでの 3ヵ月間、圓は強い投機圧力に晒されます。
9月18日に柳条湖事件が勃発。3日後の 21日に英国が金本位制を停止したことで、日本の金本位制停止への思惑は急速に強まります。金本位制への復帰は金輸出禁止前の金平価 100圓=49.3/8米ドルで実施されており、この局面に於いてもドル買いにはこの建値で売り向かうという方針が採られました。特殊為替銀行であった横濱正金銀行は国外での兌換請求に応じるために在外正貨を保有する必要がありますが、その所要見込額は急増。10月3日に正貨の現送が開始され、14日以降は、貿易取引を除いて、横濱正金銀行による銀行へのドル売りを停止。11月4日以降は実需の裏付けのない輸入取組みには応じないという策が採られています。所謂“踏み上げ”を目的とする公定歩合の引上げも実施されました。
これらの対策には徐々に奏功の兆しがみえ始めていたものの、12月末の在外正貨残高は 8,774万円と、2年間で 1/3にまで縮小しています。
第二次若槻内閣に代わった犬養毅内閣の大藏大臣は高橋是清でした[2]。新内閣は、組閣即日、金輸出を再禁止。管理通貨制度へと舵を切ります。
新政権は通貨の裏付けとなる国内正貨を重視する姿勢をとっていたことから正貨現送には消極的でしたが、前政権末期に積上がった為替の取組を清算するため、現実的には避けられない状態となっていました。一方で、金本位制が採られていた頃の貨幣法[3]第二條には“純金ノ量目二分ヲ以テ價格ノ單位ト爲シ之ヲ圓ト稱ス”と定められています。“二分”は 1/5匁ですから、金の価値は匁(≒3.75g)当り 5円。これが当時の日本銀行買入価格(造幣価格)となっており、長期に亘って据置かれていたことで国内産金業者の収益体質は脆弱化。前政権末期の圓の急落もあり(年末の実勢は 100圓当り平価 49.3/8米ドルに対し 34.1/2米ドル)、新政権には買入価格見直しの要望が寄せられています。
このような環境下、32年3月4日には“金地金買上要項”が定められ、現送を目的とする金地金等を政府が市場価格で買上げる方式を採用。15日から実施されました。
その後、国際収支は徐々に好転します。翌 33年3月に日本は国際連盟を脱退、4月には米国が金輸出の再禁止に踏切る等、国際情勢と金を取巻く環境は変化していきました。国内正貨志向の強い金融当局は、既に 32年8月の時点で、自国通貨の流通量に及ぼす影響が顧みられない正貨現送とこれを原資とする為替統制売りに懸念を示し、日本銀行借入によって賄われる特別会計の資金で金を買入れ、現物により日銀借入を返済する案を検討していましたが、34年4月の日本銀行買入法で買入主体を日銀に移し、その第三條で“本法ニ依リ買入タル金ハ 之ヲ兌換銀行券ノ引換準備ニ充ツベ”き旨が定められました。
正貨現送は、前年の 9月以降、見送られています。
年 | 月 日 | 産金保護から産金奨励へ |
1937 | 07/07 | 盧溝橋事件(日中戦争勃発) |
08/10 | 産金法・金資金特別會計法公布(25日施行<産金法・金資金特別會計法>) | |
08/11 | 日本銀行金買入法廢止ニ關スル法律公布(1938年2月1日施行) | |
08/23 | 産金法施行令・金資金特別會計規則・産金買上規則(大藏省令第三十二號)公布(25日施行 | |
<産金買上規則要項>) | ||
10/01 | 産金奨勵規則公布・施行(奨励金交付細則の制定) | |
12/28 | 金使用規則(大藏省令第六十號)公布施行 | |
1938 | 03/28 | 日本産金振興株式會社法公布(6月18日施行) |
1939 | 04/01 | 改正産金奨勵規則公布・施行(奨励金交付基準の簡素化) |
04/08 | 改正産金法公布施行 | |
05/11 | ノモンハン事件 | |
06/24 | 臨時金地金買上規則(大蔵省令第二十九號)公布(26日施行) | |
11/11 | 增産金買上規則(大蔵省令第四十八號)公布施行 | |
1940 | 02/12 | 金資金特別會計法改正(特別会計への金集中促進)公布施行 |
04/19 | 改正産金奨勵規則公布・施行(奨勵金引上げ) | |
10/10 | 金買上規則(大藏省令第七十三號)公布施行 |
1937年6月10日、陸軍が“重要産業五ヶ年計圖要綱實施ニ關スル政策大綱(試案)”を立案します(国立公文書館アジア歴史資料センター)。軍備増強のための生産体制拡充が国是となる時代、軍事物資原料の輸入増から、既に 3月には正貨現送が再開されていました。5月14日には日銀買上価格が 1グラム当り 3圓50錢から 3圓77錢へと引上げられ(15日実施)、大藏省は、“将来可及的に産金を奨勵する必要がある”ことをその理由としています[4]。
8月には日銀買入が廃止され(施行は 38年2月)、産金法によって金を政府に集中して生産から使用までを統制下に置く体制が敷かれます。産金設備機器輸入に関する関税免除(第十五條)、奨励金の交付(第十六條)といった積極的優遇策も採られました。以降、金は特別会計の金資金で政府が買上げることになります。当初の買上価格は日銀買入価格であった 1グラム当り 3圓77錢に設定され[5]、38年5月2日に 3圓85錢[6]とされた後は据置かれますが、産金業者への資金供与を含む増産体制の拡充を目的とする日本産金振興㈱が設立される等、支援体制の強化が図られました。
翌 39年には産金法が改正されて民間保有金の強制供出命令の発動も可能となります。臨時金地金買上規則の施行により買上対象も拡大。産金業者に対しては同年 11月11日に基準産金賣却量[7]を超える新産金についてグラム当り買上価格に 1~2圓の割増制度を適用する制度が導入されました。
産金量は、内地、内・外地総計共に、この年がピークとなります。
年 | 月 日 | 戦略物資調達が滞る中での傾斜生産体制への移行 |
1941 | 07/25 | 米 在米日本・支那資産凍結令布告(26日発効) |
07/26 | 英 米に追随 | |
07/28 | 蘭印が追随 | |
12/08 | 真珠湾攻撃(太平洋戦争勃発) | |
1942 | 06/05 | ミッドウェイ海戦 |
10/22 | 昭和十八年度豫算上ノ重要政策ノ先義劃定事項-金鑛業及錫鑛業ノ整備ニ關スル件閣議決定 | |
1943 | 01/12 | 金鑛業ノ整備ニ關スル件(案)閣議決定 |
03/08 | 帝國鑛業開發株式會社法改正(日本産金振興株式会社法廃止;4月5日~4月30日施行) | |
05/03 | 昭和十八年度生産擴充計劃ノ策定ニ關スル件閣議決定(金・錫鉱業整備) | |
12/18 | 臨時金地金買上規則廃止(大蔵省令第百二十二號・31日施行) |
1941年7月、連合国が自国の日本・支那資産を凍結。12月に日本は太平洋戦争開戦に踏切り、輸入決済のための正貨需要は、東南アジアのゴム・食料品取引等に限られる状態となりました。国外からの軍事物資調達に制約が生じたことで、これを国内生産によって補う体制が採られます。
42年10月には“昭和十八年度豫算上ノ重要政策ノ先議劃定事項”の一環として産金業の整備も閣議で採択され、非能率鉱山の廃止の方針が定まります。案には廃止を申し出る稼行中の鉱山に対する日本産金振興㈱による施設買収という形での補償が盛込まれました。
案は、翌年 1月、“金鑛業ノ整備ニ關スル件”として改訂され、銅、鉛、亜鉛等の重要鉱物に生産資源を集中させるために、相当量の重要鉱物も産出するものを除く金鉱山を休廃止する方針が閣議で決定されます。補償制度は残されますが、買収主体は帝國鑛業開發㈱となりました。39年の帝國鑛業開發株式會社法[8]の第一條には、“重要鑛物ノ資源ノ開發ヲ促進シ其ノ増産ヲ圖ル爲要ナル事業ヲ營ムコト”を目的とすることが定められ、“重要鑛物”からは“金鑛及砂金”が除かれていましたが、この条文は“重要鑛物ノ增産竝ニ鑛業(砂鑛業ヲ含ム 以下之ニ同ジ)及精錬業ノ整備ヲ圖ル爲”と改められます[9]。附則として、日本産金振興株式會社法の廃止、及び帝國鑛業開發㈱による日本産金振興㈱資産の承継(合併)も定められました。
金及錫鑛業ヲ整備シ 之ニ依リテ生ズベキ設備勞力等ノ優先的轉用竝ニ應急非常對策ニ依リ 銅、鉛、亜鉛、アンチモニー等重要不足資源ノ增産ヲ推進ス
“昭和十八年度豫算上ノ生産擴充計圖ノ策定ニ關スル件(1938年5月3日閣議決定)”抜粋
国策の転換により我が国の産金業は実質的に消滅します。放置された坑道は、採算の見込める再稼行を期待できる状態ではなくなりました。
かつて指宿に存在した金鉱も、坑道跡から往時を偲ぶ他ありません。
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