成川神舞は山川南方神社の神事で、現在は3年に1度(西暦の4桁の数字の合計が3で割り切れる年)、宮入れ(廻巡幸祭)2日目の夜に催されています。南方神社は明治時代に末社を合祀し、明治6(1873)年に改称するまで諏訪大明神として祀られていましたが、昭和2(1927)年の火災で記録が焼失したことで縁起の詳細や神舞の由来等は明らかではありません。ただ、南方神社のホーム・ページに拠れば、江戸時代に諏訪大明神の社家で大祝子(宮司)であった有馬家の系図に、慶安2(1649)年に京都の吉田家から神道裁可状を受けた有馬純定が、慶安から万治(1648~61)の頃、社頭に於いて島津家19代光久[1]の前で神舞を舞ったことが記録されているとのことです。
かつては33番が夜を徹して舞われていたようですが、現在の舞賦は以下の14番。18:00~23:00時頃にかけて奉納されます。画像は2019年11月3日に催された神舞の様子です。
成川神舞は先ず序の舞が女の子の“内侍舞”。続いて男児二人の“きんねんたま”が舞われます。何れも本来の舞賦には入っていませんが、伝えられる賦が少なくなったために追加されました。“きんねんたま”の語源は不詳で、“杵舞”説、“祈念舞”説もあるようです。この2番は、お祓いを受ける氏子の家を神輿が廻る“宮入れ”でも舞われる賦です。
お諏訪様(南方神社)に奉仕する“祝子部(奉子部)”が舞っていた本来の序の舞で、狩衣、烏帽子姿の舞手が鈴と扇を持って舞います。
“田ノ神サァ”のページで紹介している五穀豊穣を願う舞で、笠をかぶり腰に杓文字を差した舞手が田ノ神サァの面を付けて舞います。昭和46(1971)年に復活しました。動画はダイジェスト版で、実際にはより長尺です。
昭和55(1980)年に復活した男の子3名の舞で、中央の舞手が“剣の御子”。比較的小柄な少年が選ばれます。昔は真剣が使用されていたため、“剣の御子”は寝かせた刃を踏んで舞いました。
平成13(2001)年に復活した白衣に緋袴の少女による舞ですが、明治時代には女面を付けた男性が舞っていたそうです。
左手に弓を持ち腰に矢を刺した狩衣、烏帽子姿の4人の舞で、昭和61(1986)年に復活しました。土地の区画を決める様を模しており、神送りの賦とされています。
赤、青、白、黄の4鬼神が順番に舞い、最後に残った黄鬼神が祭文を唱えて舞い納めます。
白い布を持った舞手が舞の途中で後転し、起上がったときには襷がけとなっているという“帯舞”で、“宮入れ”で舞われるものとは構成が異なります。動画は“帯舞”の見せ場です。
狩衣に烏帽子姿の翁が御幣と扇子を持って舞い、舞台中央に御幣が立てられます。かつて“ヨイヨイ”と呼ばれた症状を呈していた手許の覚束ない高齢者をモデルとしたのではないかと勘繰りたくなるような、体全体を小刻みに震わせる舞です。
幣立で立てられた御幣を5鬼神が奪い合います。最後に御幣を取って舞い納めるのは矢抜鬼神には登場しなかった黒鬼神ですが、賦の題は各鬼神が方角を司っていることによるもので、黒は北。青が東、赤が南、白が西、黄が中方と、四神思想(青竜・朱雀・白虎・玄武・麒麟)を汲むものになっています。
争奪戦から脱落した鬼神は順次お子様方をからかいに姿を現し、観客席は大騒ぎです。
長刀の剣版の帯舞です。
昭和61(1986)年に復活。かつては“猿女舞”と呼ばれていたようで、岩戸隠伝承での天宇受賣命(天鈿女命)の舞を表すものとされています。
12人の舞手による勇壮な剣舞で神舞は幕を閉じます。
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