尾下スコリアの噴出後、池田湖付近で多量のテフラ噴出を伴うプリーニ式噴火が発生したと考えられています。 ポンペイ(Pompei)を埋没させたヴェスヴィオ山(Monte Vesuvio)型です。これによって、白色流紋岩を主体とする池田火砕流堆積物(Ik《20万分の1地質図幅での地質記号で、5万分の1地質図幅ではIkpです》)が大隅半島までに及ぶ広範な地域に堆積しました。5,600~5,700年程前の現象と推定され、噴出量は2km3(マグマ換算 .8DREkm3)。火砕流堆積物としては指宿地方で最上位に位置し、成川、山川、池田、宮ヶ浜といった鬼門平断層南側の地形を形成している他、頴娃側の大野岳・矢筈岳山麓にも分布しています。
うなっ・せごどんのみっ |
余談:明治6(1873)年の政変 |
江藤新平 |
山川には3つの断層に囲まれた陥没構造の中に発達した地熱系が存在し[1]、伏目海岸で活発な噴気が観察できる他、中心部(山川小川2303)では九州電力㈱の地熱発電所が操業しています。池田湖テフラは、池田火山の活動により堆積した池崎火山灰、尾下スコリア、池田降下軽石、池田火砕流堆積物、池底・鰻池マール噴出物、山川火砕サージ堆積物、池田湖火山灰等の総称ですが、砂蒸し温泉が運営されている砂浜の海食崖は、このうち池田湖降下火山灰に覆われる池田火砕流堆積物の露頭の絶好の観察ポイントです。新エネルギー総合開発機構“地熱開発促進調査報告書 No.B-6 辻之岳地域(2001年3月)”に拠れば、最寄りの試錐地点(N11-TD-3:小塚浜温泉地帯北西約1.5Km)での池田火山噴出物の層厚は約30mですから、その殆どを地表で確認できることになります。
池田火砕流堆積物は主に白色軽石によって構成される非溶結の層で、伏目海岸では粗粒砂の薄層が複数挟在しています[2]。川辺禎久・阪口圭一“開聞岳地域の地質(国立研究開発法人産業技術総合研究所 地質調査総合センター,2005年,地域地質研究報告-5万分の1地質図幅 - 鹿児島(15)第100号)”で採用された試料の二酸化珪素(シリカ)とアルカリ成分の含有量は、こちらからpop-up表示される図に示す比率となっています。
池田の下門[3]から石嶺に向かう途中にある秋葉山が祀られている池田火砕流が形成した岩体を構成する基質は二度山石と呼ばれ、秋葉社の西側の谷に採石場跡が残されています。単斜・斜方輝石が含まれる池田火山由来の角閃石石英流紋岩軽石です。
稼行時期も明らかではなく用途についても加工の容易さから日常的に見掛ける石材であったという情報しか得られていませんので、引き続き提供できるコンテンツの拡充を図ります。
下の動画は大谷金山跡の奥にある大谷川の滝。地元では“ちんたらの滝”と呼ばれているようですが、小振りとはいえ水量のある河川に恵まれない指宿では最も滝らしい滝ともいえます(gif動画は集中豪雨明けのもので、普段よりも水量が多くなっています。ピッチが遅いため実際よりも大きい滝のように感じてしまいますが、動画をクリックすればMP4形式の映像をご覧頂けます)。両側は池田火砕流噴出物に覆われており、砂礫層中の礫はおそらく二度山石と同質。角閃石石英流紋岩軽石かと思われます。この露頭からの伏流水は、かつては池田地区の飲料水として利用されていたとのことです。
【追記】 2018年の指宿は珍しく台風の直撃を免れたのですが、6月から 7月にかけての台風接近時の降雨の影響によって伏目海岸の海蝕崖の一部が崩落し、残念ながら景観は変化してしまいました。
以下の 2葉は 8月の台風 19号、20号の風雨が収まった後に状況を確認した際の画像。新しい露頭が現れたことに加え、足元で間近に岩相を確認できるようになったという悲しい喜びもあるのですが、依然として危険な所もありますから訪問される際にはお気を付けになってください。
警視総監、海軍大臣等を歴任した樺山資紀による福村はつ子とその長男平左衛門の談話の聞き書き[4]に拠れば、明治7(1874)年旧正月の20日頃、目が大きく色の黒い小柄な他国人が袴を着けない常服(袷)に木履(下駄)という姿ではつ子の夫である福村市左衛門が営む山川の鰻の宿に逗留中であった西郷隆盛を訪れ、19時から1時間ほど会談しました[5]。佐賀の乱の戦線を離脱した江藤新平です。
江藤はその日、隣の庄左衛門家に一泊し、翌日8時に西郷を再訪。議論が進むにつれて声高になり、最後に腕を捲り上げた西郷に“己レノ言ヲ幾度云フテモ諾セサレハ 宛カ違ヒマス”と叱咤されて“殆ント倭縮ノ体ニテ一礼ヲナシ旬々ノ体ニテ”退出した、と樺山文書にはあるのですが、はつ子が後に別の取材に応じて語ったところでは会談はより緊迫したものであったようです(毎日新聞社サンデー毎日編輯部“生きてゐる歴史 - 西郷隆盛と江藤新平”,敎材社,1940年11月20日,国立国会図書館デジタルコレクション)。
それに拠れば、江藤は“今一度出やつたもし”と、膝詰めで何度も懇願し、その声も徐々に大きくなってきました。当時32歳の若女将だったはつ子(当文献では“ハツ”)は気が気ではなく、何事も手につかない状態だったのですが、突然、西郷の“ユーテンユーテン、キキレガゴザラント、サツマヲトコハ、アイテガ、チゲモンド!”という大声が響いたので堪らず部屋に転り込み、江藤が縁側から脱兎のごとく飛出すのを目撃します。西郷も目をゴム毬のように大きく見開いていたそうですから両者激昂していたと思われます。
樺山文書の“宛カ違ヒマス”の“宛”は、後の聞書きでは“アイテ”ですから“相手”のようですが、何れにせよ“料簡が改まらない限り、(薩摩に)尻を持込むのはお門違い”という意味であろうことに変りはありません。喧嘩別れとなったとすれば、議論は平行線を辿ったといったような生易しいものではなく、相容れるところが全くなかったとも考えられますが、江藤の料簡とはどのようなものだったのでしょう。
初代の高知県令で後に逓信大臣、農商務大臣を務める林有造は佐賀の乱勃発直前に鹿児島の西郷を訪ね、その後、江藤に面会しています。当時、江藤は国許の騒擾の沈静を待つために長崎の深堀に滞在していたとされていますが、林の印象は“江藤氏の語氣を察するに殆んど籏を擧るの勢にて且つ肥人先ず起てバ薩土ハ必す之に應ぜんと臆斷するもの丶如し”といったものでした。林は“万一佐賀にして事を擧ぐるも西郷翁ハ敢て動かざるべし”と諭しますが、江藤は“最早騎虎の勢となり復た西郷の進退を顧るに暇あらすして其意暗に土佐ハ必す應すべしと頼み居る体”であったとのことです(坂崎斌編“林有造氏 舊夢談”,嵩山堂,1891年8月4日,国立国会図書館デジタルコレクション)。
鰻での会談の決裂は必然であったかもしれません。
樺山文書の江藤は、2度目の会談後“何方ヱカ出発”したとのみありますが、ハツ(はつ子)に拠れば、後を追った西郷が飛掛かってきた江藤の腕を捉えて何事かを話しかけているのを見た村人がいたとのことですから江藤の頭には相当に血が上っていたようです[6]。
江藤が指宿-鰻の往復に辿ったのは、当時木材の搬出に使用されていた林道であったようです。指宿の市内総生産に占める林業の比率は2021年3月年度で0.1%(令和5年度統計いぶすき,総務部デジタル戦略課,2023年7月)に過ぎませんが、かつては摺ヶ浜で輓馬による浜競馬が催されるような町でした。現在の指宿の建設会社の多くは林業従事者を前身としています。
十二町から鰻にかけて権現山成層火山体を横切る林道は、やがて現役を退いて中学校運動部のトレーニング・コースとなり、その後廃道となったものの、長崎フルベッキ研究会”の石田孝氏のご発案に基き、当時NPO法人であった“縄文の森をつくろう会”が2013年2月に明治時代の地図に基く復元を完了(台風による崩落、最近になっての新たな林道の敷設等に伴う地形の変化があるため、かつての林道を完全に再現したものではありません。大日本帝國陸地測量部による1901年測図はこちらで)。“うなっ・せごどんのみっ”と名付けて、当時のエピソードを紹介するガイド・ツアーを開始。 2018年には山体で宿泊施設を経営する吟松別館悠離庵様からの申し入れがあり、その宿泊客も利用できるより安全なコースも提供されました。会だけの力では実現を期待することもできなかった道幅の拡張工事が行われたおかげで、それまでは見ることができなかった池田降下軽石の露頭も現れています。噴火の強度の変化によるものと思われる粒径差が不明瞭な層理を形成する、池田火砕流堆積物よりも僅かに早い時代の地質遺産です。これを覆っているのは池底・鏡池マール噴出物でしょうか。
指宿側からコースを辿ると、しばらくして一般道にぶつかり、右下の画像にある標識が設置されています。標識は北を指していますが、ガイド・ツアーは、参加者の年齢構成等に応じ、安全面に配慮した吟松別邸悠離庵様の敷地内を通る南回りの迂回ルート(実はこちらが本来の林道に近いルートです)を案内させて頂くことがございました。
鰻温泉口から 0.7Km(指宿十二町口から 3Km)の地点からは旧林道を外れて大きく迂回しますが、これは鹿児島市の甲突川五橋のうち二橋を流したことでも知られる 8・6水害(平成5(1993)年8月豪雨)の先行降雨により7月7 日に崩落が発生して以降、旧林道が完全に廃道となっていることによるものです。念のためにツアーが企画されていた頃に痕跡を確認してみましたが、とても責任をもってご案内できるようなコースではありませんでした。
こちらは2018年秋のツアー用に作成した懐かしいパンフレットです。
尚、NPO法人としての“縄文の森をつくろう会”は2021年8月24日を以て解散し現在は任意団体となっております。お訪ねになって案内板が撤去されていれば自治体側からの要請に応じたものとしてご理解ください。今後の旧道の維持・保全につきましても責任は負いかねます。
西郷と江藤は、基本的に見ている景色が違っていたのではないかと思われる節があるのですが、それを考えるに当って先ず明治6年の政変から。
明治元(1868)年に新政府は朝鮮に国書を送りますが、“我邦皇祖聯綿”のくだりの“皇祖”、対馬守宗重正の携えた書にあった“皇室”、“奉勅”の語が不適切であるとして朝鮮側は受理を拒絶します(東萊府使單翰,奥義制“朝鮮交際始末”巻壹 三年庚午,1877年, 国立公文書館デジタルアーカイブ)。この問題は明治5(1872)年まで尾を曳くことになり、既に明治3年2月25日(1870年3月26日)には朝鮮側の非礼についての謝罪を得るための軍事的示威行動を求める建白書[7]が上奏されています。更に明治6年に興宣大院君が発したとされる詔が火に油を注ぎ、在鮮邦人の身柄の安全を確保するための派兵という主張に足掛かりを与えることにもなりました。“伊藤博文言行録”に拠れば、その内容は以下のようなものです。
日本夷狄に化す、禽獸と何ぞ別たん、我が國人にして日本人に交わるものは死刑に處せん、
秋山悟庵編“伊藤博文言行録”,内外出版協会 偉人研究 第79編,1913年
同年に草梁館門に掲示された対日密貿易を禁じる令には以下の文言も見えます(抜粋)。
彼ハ制ヲ人於受クト雖モ耻シ不 其形ヲ変ヘ俗ヲ易ヘ。此則チ日本之人ト謂フ可ラ不 其我カ境ニ来往スヲ許ス可ラ不 騎ル所ノ船隻 若シ日本ノ舊様ニ非サレハ 則チ我カ境ニ入ルヲ許ス可ラ不
- - - - - <中 略>- - - - -
彼ノ人ノ所爲ヲ近見スニ 無法之國ト謂フ可シ
- - - - - <中 略>- - - - -
須ク彼ノ中ノ頭領之人ヲ此意ヲ以テ諭スヘシ 妄錯ノ事ヲ生スルハ 後悔有ルヲ以テ至ラ不ラ使ムヘシ
東萊府使傳令書 二,奥義制“朝鮮交際始末”巻貳 癸酉(1873年)五月,1877年
明治6(1873)年6月の廟議では外務大輔上野景範が特命全権使節の派遣と在鮮邦人の引揚げの二案択一を提案します。板垣退助は当初派兵を主張したものの、却って朝鮮吏民の疑懼を招く惧れがある、として全権大使の派遣を支持する西郷隆盛の意見を容れ、これに賛同しました。三條實美は全権大使に陸海軍を伴わせる案を提示しますが、西郷はあくまでも平和使節とすることにこだわり、全権大使として自らが任命されることを望みます。初日での合意には至りませんでしたが、全権大使の派遣については後の廟議で採択されました。
一方で人選は難航。外務卿副島種臣は自らがその任に当たることを望み、三條は西郷の身に危険が及ぶことを案じて任命に難色を示しました。桐野利秋等も西郷を死地に追い遣ることになりかねないとして、板垣に翻意を促すことを嘆願しています。板垣が桐野の意図を伝えに訪ねた際の西郷の様子が書き遺されています。それに拠れば、西郷は板垣が口を開く前に以下のように語ったとされています。
頃日桐野來れるにより、予は彼に對し、汝の從弟に向つて今回こそ死んで呉れよと言ふに、汝は之を沮止せんとす、何ぞ從弟に恥ぢざるやと、叱して此を去らしめたり、
板垣退助監修 宇田友猪・和田三郎共編“自由黨史 上”,五車樓,1910年
板垣は、その真偽を問うことも桐野の意志を伝えることもなく西郷邸を辞しました[8]。
副島は、西郷が直接訪れてその思うところを伝えたことで西郷支持に回ります。2人の間で何が話し合われたかを知る術はありませんが、おそらく副島は、西郷が彼に相応しい死場所を求めていることを覚ったのではないでしょうか。
この時期、公金不正融資事件に関与した山城屋和助の屠腹(明治5年11月29日(1872年12月29日))、その翌年に発覚した陸軍省公金横領(三谷三九郎事件)とこれを肩代わりした三井家への権益譲渡、といった長州閥がらみの不祥事が続発。西郷は板垣に“予は今日の時世に厭きたり、故に北海の地に退隠して老を養はんと欲す”と語るほどの心境に至っていました[9]。7月29日付の板垣宛の書簡には“斷然使節を先に被差立候方御宜敷は有之間敷哉 左候得者 決而彼より暴擧の事差見得候に付 可討之名も慥に相立申候”、“副島君の如き立派の使節は出來不申得共 死する位の事は相調へ可申候哉”とあり、自らの死を派兵の口実とさせることを意図していたとも思われます。同様の文脈は、8月17日の板垣宛書簡の“使節被差向候へば 必ず彼が輕蔑の振舞相顯候而已ならず 使節を暴殺に及候義は決て相違無之事に候間 其節は天下の人皆擧て可討之罪を知可申候”云々からも読み取れます。この書簡には“内乱を冀ふ心を外に移して國を興す遠略”ともあります。内政が不安定な局面での古典的常套手段です。
この8月17日は、板垣、副島等の支持により西郷を全権大使とする使節団の派遣が満場一致で採決された廟議が開催された日でした[10]。朝鮮政策よりも内政を優先する立場をとる大隈重信、大木喬任も異を唱えてはいません。
三條は宸断を仰ぎ、使節団の正使として外遊中であった岩倉具視の帰国を待って、熟議した後に改めて奏上する運びとなります。
死を決した西郷の意図は三條にも伝わっていたと思われます。
今度ノ使節ハ平常ノ使節ニ非ス 必死ヲ期セシムルノ使節ナリ 使節殺サレテ後ニ始テ戦爭ヲ決スルハ晩シ 必死ヲ期スルノ使節ヲ派遣スルノ日 已ニ戦爭ヲ決セスンバアル可カラス
三条實美 岩倉具視宛明治6年11月11日付書簡
多田好問編“岩倉公実記 下巻”,皇后宮職,1906年9月15日
ただ、海軍大輔を務めていた勝海舟から軍備の実情を聞いていたこともあり、即時開戦につながることが確実と考えられる使節派遣は時期尚早であるとも考えていたようです。
朝廷ニ於テモ使節ヲ殺スノ覺悟ナリ 君ニ代ルノ使節殺サレテ戰ハサルハ道理ニ於テモ情義ニ於テモ決シテ有ヘカラス
然ルニ如何セン海軍ノ不備所詮戦術ニ闕クル所アリ 勝大輔ニ問フニ大輔曰ク戰術決シテ整ハス 萬一政府ヨリ戰爭ヲ命セハ職ヲ辭スルノ外ナシト云々 因テ今新ニ軍艦數艘ヲ速ニ外國ヨリ購買スルコトニ着手シ宜ク急ニ其人ヲ選ンテ米歐ニ派出シ堅牢の軍艦數艘ヲ購買シ海軍ヲ備ヘ然ル後ニ發途スヘシ 仍テ已ムヲ得ス歳月ヲ遷延セサルヲ得ス
三條實美 岩倉具視宛明治6年9月26日付書簡
多田好問編“岩倉公実記 下巻”,皇后宮職,1906年9月15日
岩倉は9月12日に帰国。大久保利通を参議に加えることで三條と意見の一致をみます。要請を固辞し続けた大久保も 10月10日にこれを受諾。当初12日に予定されていた廟議は大久保入閣の都合で14日に延期され、そこから16日まで続いた議論は終始朝鮮遣使派の優勢で進みました。17日には木戸、大久保、大隈、大木が辞表を提出。岩倉も書状を三條に送り、進退を伺う事態に至ったのですが、遣使派の命運は思わぬ形で一挙に暗転します。
三條が議決を上奏し宸裁を仰ぐはずであった“翌十八日
曉 實美劇疾ヲ發シ人事省セス”
多田好問編“岩倉公実記 下巻”,皇后宮職,1906年9月15日
これにより、20日に太政大臣摂行を天皇より直接親諭された岩倉が22日に西郷、板垣、副島、江藤を自邸に迎えて提示した方針は、両案を奏請し選択を天皇に委ねるというものでした。
“隆盛等辞色激昂抗論已ム無シ”という状況の中、岩倉は“予不敏ト雖 三條氏其人ニ代リテ職事ヲ理ムルニ非ス 旨ヲ奉シテ太政大臣ノ事ヲ攝行スルナリ 予カ意見ヲ併セテ之ヲ具奏スルモ何ノ不可カ之レ有ラン”という理屈で自らの方針を曲げませんでした[11]。
23日、摂行岩倉は参内して上奏。内容は“之カ備ヲナサス今頓ニ使節ヲ發スルハ 臣其不可ヲ信ス 而テ萬不得已ノ義アルモ戦ニ従事スルガ如キニ至テハ基ヲ堅クシ備ヲナスニ非サレハ 臣實ニ其不可ヲ知ル”というものでした(朝鮮事件ニ付奏状, 国立公文書館デジタルアーカイブ)。岩倉は翌日の召見で以下の勅書を賜ります。
朕繼統ノ始ヨリ
先帝ノ遺旨ヲ體シ誓テ保國安民ノ責ヲ盡サントス 頼ニ衆庶同心協力漸ク全國一致ノ治體ニ至ル 於是國政ヲ整ヘ民力ヲ養ヒ勉メテ成功ヲ永遠ニ期スヘシ 今汝具視カ奏狀之ヲ嘉納ス 汝宜ク朕カ意ヲ奉承セヨ
奏状御嘉納宸翰,1873年10月24日
この日、西郷等は参議を辞職。大久保等の辞表は25日に却下されました。
岩倉案は果たして彼の独創だったのでしょうか。大久保は19日の日記に“予モ此上ノ處 他ニ挽回ノ策ナシトイヘ𪜈 只一ノ秘策アリ[12]”と、これを黒田清隆に伝えたことを記しています。三條の発病はその前日ですから、板挟みとなったことによる心労によるもので、三條までが加わった周到なプロットとは考えにくいような気もしますが、大久保利通日記には、この日、伊藤が岩倉邸、大久保邸を訪れている旨が記載されています。
あまりにも鮮やかな逆転劇には、どうも胡散臭さが漂います。
明治6(1873)年10月14日の廟議の席で岩倉は“樺太ノ露國人暴行、臺灣生蕃ノ暴行、朝鮮ノ遣使 此三事案ハ孰レモ重大ナリ 能ク先後寛急ヲ慮リテ以テ其處分ヲ議定セント欲ス 獨リ朝鮮遣使ノミヲ以テ目下ノ急務トシテ論スヘキモノニ非ス”と述べ、“宜ク此間ニ於テ内治ヲ整頓シテ以テ外征ヲ謀ルノ力ヲ蓄フヘシ”と主張します。“樺太ノ露國人暴行”は函泊出火事件[13]、“臺灣生蕃ノ暴行”は宮古島島民遭難事件[14]ですが、西郷は、朝鮮の件は皇威、国権にかかわるものであり、樺太、台湾の件とは性格が異なる。樺太が朝鮮に優先されるのであれば、自らを遣露使節としてもらいたい、と反駁[15]。樺太は外交交渉に委ねるべき事項であり、台湾の事件は清国の統治も及ばない原住民の蛮行である、というのが遣使派の一貫した姿勢でした。
論戦に決着はつかず、議論は翌日に持ち越されることになるのですが、彼我の主張がこれまでの過程で充分に相手側に理解されているであろうと思われるにも拘らず、15日の廟議前、江藤はご丁寧にも前日の議論に関する書簡を岩倉に渡しています。念を押す意味があったのかもしれませんが、“そこからぁ~?”感を否めない凡人には理解しづらい水準で生真面目な人物ではなかったかと思われます。
この中で江藤は、朝鮮戦を決定した場合、やむを得ない状況ではロシア戦も覚悟すべきである、という、既に8月の廟議で決定済みの西郷を使節とする朝鮮遣使の実行に水を差しかねない主張を展開しています。この頃には朝鮮遣使に踏み切った場合の使節暗殺が開戦につながることは参議共通の認識となっていたと思われますが、廟議の席で岩倉側が“朝鮮ハ野蠻ニ付 若シ西郷ヲ殺サンノ患有之ニ付 其使節派遣ヲ手順相立候上ノ事”という詭弁を弄したことに対しては、国家のために死を覚悟した人物への対応ではなく、英雄に対する礼を失する、と、少なからず違和感を覚えざるを得ない角度から反論しています[16]。どうも西郷の意図が共有されていたかどうか首を傾げたくなるところがあります。
自らが望むところではなかったとはいえ佐賀の乱に加担し、挙句同胞に対することわりもなく自党を解散して戦線を離脱した江藤は、明治7年3月1日に鰻温泉に逗留中の西郷を訪ねることになります。林有造の回想にある江藤は有岡城で叛した荒木村重のような精神状態にあったのかもしれませんが、動機を測り難いところもある行動ですし、福村はつ子の見聞をみれば、さすがの西郷も多少持て余し気味であったのかもしれません。二日に亙る会談の詳細を知ることはできませんが、二人の話が噛み合っていたとは到底思えません。
大久保が江藤を憎悪していたことは、佐賀の乱首謀者の裁判の様子を記したその日記に“江東ママ陳述曖昧實ニ笑止千万 人物推而知られたり(明治7年4月9日)”、“今朝江藤 島 以下十二人斷刑ニ付 罰文申聞カセヲ聞ク 江藤醜躰笑止ナリ(13日)”と殊更に貶める記述のあることでも知られています(国立国会図書館デジタルコレクション)。薩摩と同盟を結んで維新を成し遂げた長州の盟友を自らの外遊中に司法卿として弾劾したことを腹に据えかねていたのかもしれず、大久保を参議に加えるために奔走した人物の筆頭が伊藤博文であったことをみても、大久保と長州閥の関係は極めて密でした[17]。
明治6年の政変の目的は岩倉・大久保側が確立を目指す体制に組入れ難い勢力を排斥することにあったと思われますが、その標的は西郷ではなく江藤ではなかったでしょうか。
西郷が厭世感をもつに至る直接の原因も江藤の追求した長州閥の腐敗でした。大久保が後に“陳述曖昧實ニ笑止千万 人物推而知られたり”とする江藤が同じ議論の場についた廟議で、大久保と西郷は江藤の論ずるところをどう感じていたのでしょう。鰻で西郷を激昂させるに至る江藤を西郷がどのように評価していたか、本音を知りたいところです。
佐賀の乱の首謀者達は、江藤と共に斬首されることを潔しとしたのでしょうか。
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