岩永三五郎

熊本県に残る岩永三五郎の拱橋

熊本県の拱橋

良工ナリシ人ノ能知ル所シテ、水利ヲ視、得失ヲ考ヘ、大数ヲ測ル敏ナル所シテ、初テ見ル地ト雖モ神ノ如シ、

海老原清煕履歴概略“ニ 肥後石工岩永三五郎ノ事

薩摩藩天保改革関係資料 一,鹿児島県史料集 第39集,鹿児島県立図書館,1999

肥後種山の石工岩永三五郎は、薩摩藩が調所広郷の主導の下で種々の改革を進めていた天保十一(1840)年に調所の進言で招かれ、各地で土木・治水工事に携わった技能者の一人です。指宿でも天保十四(1843)年から潟口の船溜り設営を含む二反田川河口改修・五間川整備工事を手掛けており、十五(1844)年には宮ヶ浜の湊川橋も竣工しました。交通手段の変化に伴い、現在は画像のような形状となっていますが、かつては中央部が弧を描き、“()()(ばし)”と呼ばれていたようです。二反田川の二反田川橋(拱橋)、五間川の五間川橋(桁橋)も三五郎によるものですが、何れも架け替えられ、残されていません。このうち二反田川橋は、島津斉彬の残した指宿八景御詠のうち鼓橋夕照に詠まれたと考えられる橋。また、同じく指宿八景(新宮晩鐘)に詠まれた揖宿神社に嘉永元(1848)年に島津家27代斉興が奉納した鳥居も岩永三五郎の手による根占の御影石[1]です。

“鹿児島県維新前土木史(鹿児島縣土木課,1934)”に拠れば、旧二月田橋は径間24尺(7.27m)、拱矢9尺(2.73m)。湊川橋は同各々52尺(15.76m)、20尺(6.06m)ですから、拱矢比はほぼ等しいものの、橋長は約1/2でした。

岩永三五郎の宮ヶ浜湊川橋

 

指宿は河川の規模が小さいために橋梁も全て小型のものながら、鹿児島市の甲突川は川幅が広く、甲突川五橋と呼ばれた4連、5連の拱橋が岩永三五郎によって築かれていました。8・6水害(平成51993)年8月豪雨)による流出を免れた3橋は浜町/清水町の石橋記念公園に移設・保存されており、流出前の五橋が甲突川に架かる姿は南日本放送のMBCアーカイブスでご覧いただけます(武之橋新上橋高麗橋玉江橋西田橋[2]。この他にも鹿児島市には平川町で芝野五位野西線が五位野川を渡るところに架けられている園田橋が残されていて、三五郎による鹿児島城下での最後の架橋事業とされる1連の()(がしら)太鼓橋[3]もありましたが、こちらは道路拡幅工事に伴い撤去されてしまいました。 岩永三五郎の甲突川五橋のうち流失を免れた西田橋・高麗橋・玉江橋


 

観光スポットとして人気の高い霧島市の霧島神宮にも三五郎ゆかりの石造物が残されています。本殿前の()(みず)()は、岩永三五郎作、もしくは奉納と伝えられるもの。社務所横の客殿には、台座に“奉納 岩永三五郎”とある手水鉢が置かれています。こちらは天保十三(1842)年に納められたようです。 霧島神社に残される岩永三五郎ゆかりの遺構(手水舎・手水鉢台座)


 

嘉永元(1849)年に調所広郷が自裁。ほどなく、調所の下で薩摩藩の天保の改革を担った海老原清煕(きよひろ)も役を解かれます。

岩永三五郎は、調所自裁の翌年に薩摩を離れました。下の画像は同年旧暦八月に現薩摩川内市の八間川に架けられた江之口橋。薩摩での最後の仕事です。 岩永三五郎の薩摩川内市江之口橋



 

熊本県に残る岩永三五郎の拱橋

岩永三五郎墓碑 岩永三五郎は、薩摩から戻って2年後の嘉永四(1851)年にこの世を去り、熊本県八代市鏡町の芝口に葬られていますが、鏡町には三五郎の拱橋も残っています。当初“町田太鼓橋”と呼ばれていた“鑑内橋”。文政十三(1830)年頃の架橋で、名称は鏡(鑑)町と内田村を結ぶことに因みます。西南の役で日奈久南の洲口から北上してきた官軍と熊本で攻城中の薩軍の斥候が遭遇した場所とされています。 岩永三五郎の鑑内橋


雄亀(おけ)(だけ)

()(もち)の水田開発のため建設された緑川の支流柏川から取水する灌漑用水路“(かしわ)(ごう)井出”を雄亀滝の谷を渡すために文化十四(1817)年に架けられた、熊本県最古且つ現役の水路橋です。37年後に完成する“通潤橋”の建設に際しても参考とされたと伝えられ、岩永三五郎の享年は57とされていますから、当時23歳。海老原清煕の“神ノ如シ”という評も不思議ではありません。 岩永三五郎の雄亀滝橋


三由(みつよせ)

岩永三五郎の三由橋 文政十三(1830)年に小熊野川に架けられた三由橋。当初の拱名は“鬼迫川目鑑橋”だったようです


聖橋

天保三(1832)年、山都町(旧矢部町)野尻に架けられましたが、コンクリート橋が併設された際に一部が取り壊されています。植生のため壁石を確認しづらくなっているものの(反対側はコンクリート橋のため露出していません)、幸か不幸か立ち寄った際にも補修工事が行われており、その足場から原面を間近に観察することができました。 岩永三五郎の聖橋

岩永三五郎が熊本に残した拱橋には、この他にも上益城郡山都町(旧蘇陽町)滝上で畑ノ地川に架けられた“()(ばん)の目鑑橋”があります。架橋時期については天保六(1835)年説と文化年間説があるようで、文化年間説が正しければ、雄亀滝橋よりも早い時期の三五郎一番橋である可能性も考えられます。これまで訪れる機会もなく、画像も確保できていませんが、何らかの情報が得られるようであれば、コンテンツを更新して参ります。

また、岩永三五郎以外の肥後の名工の作品については“<番外編>熊本県の拱橋”のページに画像をまとめました。

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[1] 根占の御影石は南大隅閃緑花崗岩。深成岩の露出の希な指宿ではあまり馴染みのない石材ですが、地表で固化した火成岩では流紋岩に対応します。
[2] 土木史研究 16巻,土木学会,199665

吉原 進・奥田 朗・西原 幸男・鳥巣 佳彦・佐竹 芳郎・米倉 敏雄・迯目 英正・中島 一誠・阿久根 芳徳“鹿児島県甲突川五石橋の形態的、 構造的特徴

金丸 正光・鮫島 健二郎・吉原 進“玉江橋解体調査結果

阿久根 芳徳・吉原 進・末永 幸一“薩摩藩城下に架けた高麗橋の構造 -鹿児島市甲突川に架かる4連石造アーチ橋・高麗橋の解体調査結果-

今村 裕一郎・中島 一誠・柚木 兼治・吉元 和久・吉原 進“新上橋・武之橋解体調査結果

後藤 惠之輔・松下 宏壱“鹿児島市甲突川石橋「西田橋」保存考 ~歴史的土木遺産の現地保存と都市防災の両立を目指して~

土木史研究 17巻,土木学会,199765

吉原 進・迯目 英正・奥田 朗“橋梁技術史上における甲突川五石橋の位置づけ

迯目 英正・長谷場 良二・奥田 朗・吉原 進“我が国の石造アーチ橋の発展と岩永三五郎,阿蘇鉄矢の事跡

内山 一則・奥田 朗・吉原 進“甲突川五石橋の建設と背景

長谷場 良二・奥田 朗・吉原 進“甲突川五石橋の取り扱いに関する歴史的経緯

牟田神 宗征・奥田 朗・吉原 進“甲突川の治水史・流域特性の変化と五石橋

吉村 伸一“甲突川5大石橋群に見る治水システム

北畠 清仁“甲突川の水理と五大石橋の現地保存

知識 博美・奥田 朗・牟田神 宗征“8.6水害に対する甲突川の治水対策及び石橋保存対策

上野 敏孝“石橋保存の治水面からの考察

長谷場 良二・関 晃・吉原 進“西田橋の築造技法と改変状況

伊東 孝“鹿児島甲突川の五大石橋論争:過去・現在・未来

向原 祥隆“甲突川最後の五大石橋, 西田橋解体の政策決定の経緯

土木史研究 18巻,土木学会,199851

長谷場 良二・鳥巣 佳彦・吉原 進“石造アーチ橋・西田橋の移設復元方針

福武 毅芳・長谷場 良二・山口 弘信・竹脇 尚信・吉原 進“西田橋基礎の地震応答シミュレーション -沖積地盤上の石造アーチ橋の移設計画-

岩永三五郎が甲突川に架けた橋には、この他に入佐土橋があったようです(海老原清煕履歴概略“〇五 甲突川架橋及ヒ改修等ノ事”,薩摩藩天保改革関係資料 一,鹿児島県史料集 第39集,鹿児島県立図書館,1999年)。

[3] 原口 泉“河頭太鼓橋の歴史的意義と岩永三五郎”,土木史研究 17巻,土木学会,199765

上野 敏孝・北畠 海仁“河頭太鼓橋をとりまく土木通構と治水”,土木史研究 18巻,土木学会,199851


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