874年火砕流・土石流堆積物(開聞岳貞觀の噴火)

秋七月丁亥朔。二日戊子。地震。』大宰府言。薩摩國從四位上開聞神山頂。火有リ自燒ス。煙薫天滿チ。灰沙雨ノ如シ。震動之聲百餘里聞コフ。社近キ百姓震恐シ精ヲ矢フ。

日本三代實録 卷二十六 起貞觀十六年七月盡十二月

国立国会図書館デジタルコレクション

大宰府からの報告として七月二日(新暦821日)の項に記されていますから、噴火はそれ以前に発生した可能性が高いと考えられ、同月廿九日の条に、

去三月四日夜。雷霆響ヲ發ス。宵ヲ通ジテ振動ス。遅明天氣陰蒙。晝暗ク夜ノ如シ。時()リテ沙雨ル。色聚墨ノ如シ。終日止マ不。地積ル之厚ミ。或處五寸。或處一寸餘可。昏暮及ブ(コロ)。沙變ジテ雨ト成ル。禾稼(カカ)之ヲ得ル者皆枯損至ル。河水沙(マジ)リ。更盧濁ヲ爲ス。魚死スル者數無シ。人民死魚ヲ得テ食スル者有リ。或死シ或病ム。

とあるものも同一の現象に関する報告であるとすれば、新暦329日のことになります。富士山貞觀の大噴火から10年後の異変です。

七月廿九日の条にあるものが開聞岳の噴火であれば、噴火翌日の降雨によって土石流が発生した模様で、橋牟礼川遺跡で1988年に発掘された貞觀の噴火による倒壊建造物跡でも、スコリアの重みで崩落した屋根の下に細粒堆積物の流入が確認されているそうです[1]。テフラ(12a)噴出量は23,700m3(マグマ換算1900DREm3)。噴出テフラ量(溶岩は含まれません)の規模に基づく8段階評価の火山爆発指数(VEI:Volcanic Explosivity Index)は、桜島の大正大噴火(1914年)と同水準の4Large)でした。

開聞岳の874年の噴火に由来する噴出物(874p)は、鉢窪(貞觀の噴火以前に形成された主山体の火口跡)の下、北西から南東にかけての主山体南部に拡がり、海岸部で横瀬溶岩開聞岳南溶岩を覆います。藤野・小林(1997[2]では、貞觀の噴火によって発生した火砕流により従来の火口が南側に拡大し、噴出物が主山体南部を流下したと想定されています。

 

枚聞神社も罹災し、ご神体は揖宿神社(新宮九社大明神)に避難されました。

脇崎で開聞岳南溶岩を覆う874年開聞岳噴火の噴出物 五十六代清和帝 貞観十六年甲午七月長主山就震火、御神託之訳依而(ヨリテ)、同十日枚聞宮準シ、八社勧進奉、新宮九社大明神()本跡(オコ) 縁起之神道記ヲ神祇相続、継目之節 西宮ニ拝詣奉リ 直ニ神祠冠服之宣命 規格相定、至今 神道之宮領無他、恒例的々相承仕來候。新宮社 近里之地名 宮与申候。

薩刕揖宿開聞新宮由緒 末社 旧記棟札写

寛政九年九月二十八日17971116日)

これに拠れば、七月一~九日(820~28日)の間に噴火が発生し、十日に御神体が移されたことになっていますが、明治四年未十一月(18711212~187219日)の揖宿神社祭神幷其外取調帳の記載は、

貞觀十六年有、長主山之焼烟薫、満天灰砂 雨、震動之聲 萬余里コフ、比崇而(オコシ)二十戸、此事以神託 霜月十日揖宿郡()勧請奉、今于至、十一月十日之祭会 定例爲也。

と、遷宮は1226日です。

開聞岳の噴火とこれに伴う遷宮共に貞觀十六年の出来事であったことは間違いなさそうですが、何れも正確な日時は特定しかねます。[3]

 

  敷領遺跡の貞觀の噴火噴出物層

旧指宿市内の敷領遺跡[4]は貞觀の噴火の被害を受けた弥生中期~平安時代の居住地域の遺構で、2019年に実施された南十町側の発掘調査時にも、埋没物を含む層を覆う貞観の噴火の噴出物を明確に確認することができました。ただ、縄文時代後期の温湯(ぬり)中島ノ下遺跡で確認されたようなクラスティック・ダイク[5]は存在せず、地震による液状化の被害は受けていないようです。

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[1] 成尾英仁・下山覚“開聞岳の噴火災害 -橋牟礼川遺跡を中心に-”,名古屋大学加速器質量分析計業績報告書1996
[2] 藤野直樹;小林哲夫“開聞岳火山の噴火史”,火山 第42巻 第3号,1997年。
[3] 開聞岳の噴火は三國名勝圖會の開聞新宮九社大明神社の項国立国会図書館デジタルコレクションには“貞觀十六年、甲午、七月、一本社記曰二月三日”とあります。また、薩藩名勝志鹿児島県立図書館蔵の新宮九社大明神の項では

貞観十六年甲午二月二日開聞山火を発せし時神託によて十一月十日開聞宮に準し八社を勧請し開聞新宮九社大明神と号す、

と、噴火は三國名勝図會の異説とは 1日異なる 226日ですが、共に日本三代實録の記録よりも1ヵ月ほど早く、遷宮は1226日です。

[4] 敷領遺跡の概要については、鹿児島県上野原縄文の森ホーム・ページ(鹿児島県立埋蔵文化財センター・トップ・ページ)の“先史・古代の鹿児島(南薩地区)”にある“敷領遺跡”をご参照ください。詳細は、島根大学附属図書館・奈良文化財研究所の“全国遺跡報告総覧”で公開されている 以下の“指宿市埋蔵文化財発掘調査報告書(鹿児島県指宿市教育委員会)”でご覧頂けます。
22 橋牟礼川遺跡範囲確認調査報告書(橋牟礼川遺跡(向吉遺跡地点・敷領遺跡)) 19963
25 弥次ヶ湯団地事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(敷領遺跡) 19983
26 橋牟礼川遺跡範囲確認調査報告書(橋牟礼川遺跡ⅩⅢ 19983
31 弥次ヶ湯団地事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(敷領遺跡・弥次ヶ湯古墳) 19993
32 範囲確認調査報告書(橋牟礼川遺跡XV・敷領遺跡・殿様湯跡) 20003
39 平成17年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・南迫田遺跡・新番所後遺跡) 20063
41 平成18年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・慶固遺跡) 20073
43 平成19年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・成川遺跡・南摺ヶ浜遺跡・水迫遺跡) 20083
45 平成20年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・成川遺跡) 20093
47 平成21年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・大園原遺跡・山王遺跡・森山遺跡) 20103
49 平成22年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡) 20113
50 平成23年度市内遺跡確認調査報告書 20123
52 平成24年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・松尾城) 20133
54 平成25年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・迫田遺跡・松尾城跡 20143
55 平成26年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・松尾城跡・その他市内遺跡) 20153
58 平成27年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・新番所後遺跡・迫田遺跡・松尾城跡 20163
63 平成30年度市市内遺跡発掘調査報告書(敷領遺跡・成川遺跡・下吹越遺跡) 20193
64 令和元年度市内遺跡発掘調査報告書(敷領遺跡) 20203
66 令和2年度市内遺跡発掘調査報告書(敷領遺跡・上玉里遺跡・成川遺跡) 20213
68 令和3年度市内遺跡発掘調査報告書(南迫田遺跡・敷領遺跡・成川遺跡・その他市内遺跡) 20223
70 令和4年度市内遺跡発掘調査報告書(迫田遺跡・敷領遺跡・道下遺跡・上払遺跡) 20233
こちらは20221211日に実施された指宿市考古博物館主催の遺跡見学会の模様。貞觀の噴火で埋没した土器捨場の奥に紫ゴラ(仁和の噴火・ピンクのプレート)とその下位にある青ゴラ(貞觀の噴火・ブルーのプレート)の露頭を確認することができます。本文で使用しているトレンチは既に埋め戻され、上に集合住宅が建設されていました。現場はその隣接地です。当日配布された資料も“全国遺跡総覧”で公開されています 敷領遺跡の土器捨場の露頭
[5] 成尾英仁・小林哲夫“噴火によって生じたクラスティックダイク”,鹿児島大学理学部紀要(地学・生物学)No.2819951230日:寒川旭“中島ノ下遺跡において認められた地震跡”,農村地域工業導入実施計画に伴う中島ノ下遺跡発掘調査報告書,指宿市埋蔵文化財発掘調査報告書第7集,鹿児島県指宿市教育委員会,19903月。液状化現象は鳥山遺跡でも確認されています(“指宿市埋蔵文化財発掘調査報告書第18集:県営畑地帯農道網整備事業宮十石地区に伴う埋蔵文化財詳細分布調査(鳥山遺跡”,鹿児島県指宿市教育委員会,19953月)。

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