清見岳溶岩ドーム

松ヶ窪からの登山道脇の清見岳溶岩の露頭 池田湖に面した、松ヶ窪側からの登山道、池田湖側の急崖で清見岳溶岩の露出が確認できます。ただ、松ヶ窪コースは、結構チャレンジングですから、足下には充分にお気を付けください。

以前は5,600年前の池田火山噴火によって形成されたと考えられていたようですが、53,000年前に噴出した清見岳テフラに覆われていない一方で、5~3万年前に噴出したと推定されている池底溶岩が池田湖側急崖に流出していることから、その間に形成されたと考えることが妥当でしょう。

 

日照仏神社が祀られる柱状節理をもつ岩塊

石嶺側からの登山道はなだらかで、頂上の700m程度手前にある、清見城址の縄張り内の溶岩洞窟を利用して祀られたと伝わる日照()(ぼとけ)神社(ひぼっけどん)で、柱状節理をもつ岩塊を観察することができます。祭神等は明らかではありませんが、時代の異なる馬頭観音が複数祀られています。昭和初期までは火の玉が飛翔する現象がみられた、天狗伝説もある山です。

こちらは清見岳山頂からの眺望です。

 

余談:清見城と()(じん(ヵ))()(ぜん)

この地域を治めていた平姓穎娃氏は、1410(應永17)年に島津家7代元久(恕翁公)に叛して攻め滅ぼされ、元久は弟久豊をここに配しました。翌年、元久が没したことで、島津家8代を継いだ久豊(義天公)は(むか)()城(宮崎市)に移り、穎娃氏一族の小牧氏に領地を譲って頴娃を名乗らせます。ところが、この穎娃氏も反乱を起こし、久豊によって1420(應永27)年に滅ぼされました。

餓死ヶ御前の刻み地蔵 この時、小牧氏は清見城に池田信濃守を配しており、久豊の養子である肝屬兼政(重忠)と佐多親久連合軍の前に落城して池田家の姫にからむ悲話を残すことになります。母親と、許婚であった家老の息子と共に城を出て池田湖畔の洞窟に潜み、落城を知った後、一族の菩提を弔うために地蔵像を刻んだ末に餓死したと伝えられる()(じん(ヵ))()(ぜん)です。“刻み地蔵”は名称が凄惨ですが、“磨崖仏”のことで、切り刻まれた人が祀られている訳ではありません。柱状節理のある凝灰質安山岩の亀裂に残されており、池田湖火山灰層が堆積した地域のため地盤が脆く、崩落の惧れがあることから、現在、洞窟内部には入れませんので、画像も外側からのものです。

姫にはお気の毒ですが、江戸時代初期の遺構と推定されています。

勝敗を決したのは夜襲であったかもしれません。

三國名勝圖會には、

土人の傳へに、往昔いつれの代にや、淸見某が出丸なりしを、肝付氏が軍兵、風雨の夜、暝冥に乗し、城南岸崖の松樹に鎌を掛けて、城に登り、遂に是を陥る、近世までは、鎌掛松と唱へし古松樹ありしとぞ、

とあります(巻之二十一 二十一,国立国会図書館デジタルコレクション)。

随分と曖昧ですが、淸見某は池田信濃守、肝付氏は肝屬兼政でしょうか[1]。清見岳南側(池田湖側)の断崖は、このページの最初の清見岳溶岩の画像をクリックすればご覧になれます。魚見岳の項で紹介している清見岳から飛翔してくる鬼火にも、“今和泉清見城ノ城主池田信濃守”説があったようです(揖宿古主略考[2])。

 

平姓穎娃氏滅亡後に頴娃、指宿を与えられて頴娃を名乗ったのが、兼政が初代となる肝屬氏庶流の伴姓穎娃氏です。頴娃に獅子城(野首城)を築城した兼政によって、清見城には弟光忠が配されました。





[1] 指宿市池田の石嶺地区に、攻城方を敗走させた際に、池田信濃守の御前での祝宴で庄五郎名の武士が踊ったといわれる“庄五郎踊り”という芸能があります。鹿児島市(旧揖宿郡)喜入町生見の帖地集落にも同様の由来をもつ“しょごろ節”が伝わっていましたが、こちらは、1970年頃を最後に途絶えているそうです(喜入町郷土誌,20043月)。言い伝えが本当であれば、一進一退の攻防が続く激戦で、城方にも少しは余裕があったということになるのですが、指宿市誌(198510月)に紹介されている歌詞をみる限り、どうも胡散臭いところがあります。ちなみに、3番の歌詞は、“よんべ来たいのは猫じゃ猫じゃと、おさんすが、ああ猫が傘差い、木履(ぼくよ)ふんで、みわばくせかせーて来るものか”と、絞りの浴衣とは小道具が異なるというだけの俗謡です(木履は下駄のことで、ポックリの語源です。“みわばくせかせーて”は不詳ですが、もしかすると“絞りの浴衣”でしょうか・・・)。庄五郎踊りは、指宿市考古博物館(Coccoはしむれ)による YouTubeJP 紹介動画でご覧になれます。
[2] 重永卓爾校註“伊地知季安原編「揖宿古主略考」(上)”,揖宿史談 第4号,指宿史談会,19845

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