周辺の史跡①:捍海隄 |
揖宿氏 |
今和泉島津氏 |
周辺の史跡②:磨崖五輪塔 |
周辺の史跡③:光臺寺跡 |
湊川層(Mgf)は、幸屋から宮ヶ浜に流れ錦江湾に注ぐ湊川の河床、河岸に分布する砂礫層で、護岸工事のため露出が大きく縮小してしまってはいるものの、永吉以西の新西方側の流域の所々に残されています。
7万5,000年前頃に噴出した花ノ木テフラに覆われていますが年代は明らかでなく、MATUMOTOの阿多カルデラの噴火後、指宿火山群の活動開始までの間に堆積した更新世の堆積岩ではないかと考えられています。
湊川には肥後の石工岩永三五郎によるものを含む四門の拱橋が残されています。
天保四年の暮も押し詰まった十二月廿九日(新暦1834年2月7日)に着工し、翌年七月十三日(新暦8月17日)に竣工という、なかなかの突貫工事で建造された荒平石の国登録有形文化財で、指宿小学校(西方4692-1)校庭南東側の隅に残される石碑にある指宿邑捍海隄記[1]には、“沿海一帯沙渚平淺ニシテ舟舶安ジテ泊マル處無ク”とありますから、単に防波堤が造られただけではなく、本格的な港湾建設であったかと思われます。天保年間といえば、調所広郷(1776~1849年)[2]が主導した、密貿易を財源の柱とする財政改革の真っ只中です。
捍海隄記の最後は“公之民ノ為ニスル深慮而善ク患ヲ捍ギ、利ヲ與ヘ、以テ之ヲ民ニ告ス。人而シテ又之ヲ使ヒ其ヲ知ル所ノ始メ也”とでも読めばいいのでしょうか(公之為民深慮而善捍患與利以告民之人而又使之知其所始也)。竣工後は調所の庇護を受けた湊の政商濱崎家も拠点の一つとしたという時代背景を考えれば、そうとばかりは言えないような生臭さが漂いますけど。
左の画像は池田火砕流堆積物の上に残る松尾城(揖宿城)曲輪址からのもので、遠景の左が知林ヶ島、右が魚見岳、奥に大隅半島を望みます。クリックすれば、左側手前にある石灯篭の拡大画像が表示されます。
幼少より不敵にして、兄にも所をおかず、傍若無人なりしかば、身に添えて都に置きなば惡かりなんとて、父不孝して十三の歳より、鎭西の方へ追下すに、豐後國に居住し、尾張の權の守家遠を乳母とし、肥後國阿曾の平四郎忠景が子、三郎忠國が聟になりて、君よりも給わらぬ九國の總追捕使と號して、筑紫を随へんとしければ、菊池原田を始として、所々に城を構へて楯籠れば、其儀ならば、いで落いえ見せんとて、未だ勢も附かざるに、忠國計を案内者として、十三の歳の三月の末より、十五の歳の十月迄、大事の軍をする事二十餘度、城を落す事数十箇所なり。
保元物語 巻一(黑川眞道編集文舘版)
“新院御所各門々堅めの亊附軍評定の亊”
“三十六差したる黒羽の矢負い、甲をば郎等に持たせて歩み出でたる體、樊噲も斯やと覺えて由々しかりき。謀は張良にも劣ら”ざる、お馴染み鎮西八郎爲朝です。ここにある阿曾忠景は伊作平氏阿多忠景の誤りとされていて[3]、その兄である平姓穎娃氏の始祖三郎忠永の次男五郎(号次郎)忠光が、揖宿氏の始祖となります[4]。指宿市誌(1985年10月25日)に拠れば、前の項で触れた松尾城は3代五郎忠村による造営と推定されているようです。
揖宿氏は、元弘の乱に際しては正慶二北朝(元弘三南朝;1332)年に7代成栄(彦次郎忠篤)が大友、少弐、島津勢に従い、筑紫合戦で鎮西探題を倒した後、上洛してこれを届けました[5]。その後、足利尊氏は建武政権から離脱。建武二(1336)年の箱根・竹之下合戦で官軍を破って京に攻め上る頃に揖宿氏は島津氏と共に足利方に転じたようです。その後、足利勢は後醍醐帝の送った追討軍との戦に敗れ九州に落ちて再起の機会を窺うことになるのですが、揖宿氏も島津氏と共にこれに随っています。南九州では肝属、伊東といった南朝方の勢力が旺盛で、尊氏は建武三北朝(延元元南朝)年(1336)年に島津貞久を下向させ、有力国人衆にも守護に随って“肝属八郎兼重 以下兇徒”を誅伐せよとの催促状を送っています[6]。指宿成榮もこれに随いました[7]。ところが翌建武四北朝(延元二南朝三月十七日(1337年4月26日)に懐良親王の侍従三条泰季を迎えると南朝方に転じ北朝方の島津氏と対峙します[8]。
結局のところ、揖宿氏は明徳三北朝(元中九南朝;1392)年の両朝合一後、島津家7代元久(恕翁公;1363~1411年)の時代に、島津氏に被官したと考えられています[9]。指宿は、1409(応永十六)年に揖宿氏8代正忠に代わって阿多加賀守に任され、島津家8代久豐(義天公;1375~1425年)の代に奈良美作守兄弟領となるのですが、奈良氏兄弟は統治不行届きを理由に久豐に逐われます[10]。その後も領主は数度に亘って交替し、伴姓穎娃氏4代兼洪によって島津氏の勢力が駆逐された時代もありました(大永五(1525)年)。頴娃攻めに屈した兼洪が島津貴久に降り揖宿地頭職を許されたのは天文二(1533)年。湯豐宿郡は2年後に津曲美濃守兼任に任されます。兼洪は更にその3年後に没し、津曲兼任によって建立された源忠寺に祀られました。“湯豐宿郡”と “津曲美濃守”の名が刻まれる久保の方柱板碑は、しばらく後の天文十七(1548)年に祀られたようです。ホルヘ・アルヴァレス(Jorge Álvares;~1521)の山川来航の翌年で、円相に“妙”と刻まれる、おそらくは大谷石の遺構。形状は菅山の方柱板碑に似ていますが大振りです[11]。
松尾城は、1571(元龜二)年に始まる伴姓穎娃家の内訌時にも證恩崩れで自刃を命じられる津曲道俊等が拠るところとなりますから、火種の絶えない地域であったのかもしれません。
慶長二十(1615)年の一国一城令により廃され現在は松尾崎神社が祀られていますが、当時の曲輪や空堀の形状は或程度残されていて、継続的に発掘調査も実施されていました[12]。指宿枕崎線が縄張りの中を通過しますから、指宿のたまて箱の海側の車窓からも登城口を確認することができます。
応永廿四年九月(1417年10月19日~11月17日)、總州島津家の重臣酒匂紀伊守が河邊(川辺)松尾城で主家に叛きます。總州島津家とさまざまな軋轢のあった島津家8代久豐と意を通じてのこととされています。
久豐は戦と権謀に明け暮れる日々を過ごした当主で、その事績を記した西藩野史巻之六(国立国会図書館デジタルコレクション)には、襲封からここに至るまでの経緯として、概ね
といった事件が記録されています。これだけでは何のことだかお解りになりづらいかと思いますので、詳細は上にリンクを設けている原典をご参照ください。
補足しておきますと、久世の總州家は島津家5代貞久の三男師久が薩摩守護職を継いだことで立てられた分家で、久世は3代目です。伊集院家は島津家2代島津忠時の七男忠経の四男俊忠に始まる家柄で(長子宗長が給黎家の祖となります)、弾正少弼賴久が7代目でした。伊作家は島津家3代久經の次男久長を祖とし、勝久は5代目。絵に描いたような骨肉の諍です。
上の表にある経緯からも伺われる久豐と伊集院賴久との確執には應永十八(1412)年の島津家7代元久の葬儀もかかわっています。
久豐は日向伊東氏への対応を巡って反目して以降、兄である先代元久との折り合いが悪く、伊集院賴久は、その嫡男初犬千代丸(煕久)に島津家を嗣がせることが元久の遺命であったと主張して兵を率いて鹿児島に上り、初犬千代丸を喪主とする葬儀の強行を図りました。
傳云此時賴久カ軍東福寺寶方清水城邊ニ充滿ス 佐多伯耆守親久 北郷中務少輔知久 樺山安藝守教宗 吉田若狭守淸正 蒲生美濃守淸寛 伊地知民部少輔等 胥日議シテ急ヲ久豐公ニツク 日州穆佐ニアリ 輕騎ヲ驅テ鹿児島ニ至ル 傳云 佐多若狭守 佐多美濃守 樺山伊賀守 末弘某 伊地知某 是に從フ 時ニ元久公ヲ福昌寺ニ葬ス 伊集院犬千代 公ノ神主ヲ奉ス 梵議死者ノ後タル者 神主ヲ奉スルヲ以テ禮トス 賴久カ衆寺中ニ充ツ 久豐公憤激ニ堪ヘス自神主ヲ奪フテ奉シ葬禮ヲ終フ 賴久大ニ恚ミ伊集院ニ皈テ叛ス
西藩野史(国立国会図書館デジタルコレクション)
この後、賴久は河邊、給黎(喜入)を陥し、河邊城を久世に譲るといった、一行で済ませるには惜しい展開が続くことになるのですが、久豐による実質的な久世謀殺を機に、島津家と伊集院家の間の緊張は更に高まります[13]。最初の衝突は應永廿四年九月十一日(1417年10月24日)。酒匂紀伊守の河邊松尾城に陣を構えた島津勢は、久世の嫡子、5歳の犬太郎を奉じて河邊城に拠る總州勢、援軍伊集院勢に大敗を喫しました。
(一)上手ニハ新納近江守 殿手ニ隈江右京亮 上井筑前 八ヶ代四郎左衛門尉平郎討死ス、江州は甲のはちを切ひしかれ大長刀以手之程尽合戰有、傍安楽豐前●●川野土佐両人前之敵之中を切通、江州を取退る、此時平田重宗ニ親類に勘解由左衛門尉 田鍋 津曲なんと被討て、我は城に切通、大寺 美濃守 長野左京亮は深手負様々助る、田代肥前守は打死ス、國方ニ者禰寝兄弟 同山本孫五郎 其外宗徒之者共數十人被討 同出羽守深手負助る 蒲生美濃入道死す、親類に中原討る、是聞候なれはさのミ不及注候、
一 下手一家 ニ和泉殿兄弟 又四郎直久 又五郎忠次 給黎 猿渡其外一所ニ而十人計打死ス、是も御内ニ伊地知将監(重春)討る、國方に者 吉田 和田 下田 西村 此手内者數十人 栗野 菱刈打死ス
山田聖榮自記(薩摩国阿多郡史料,鹿児島県史料,鹿児島県立図書館蔵)
西藩野史(国立国会図書館デジタルコレクション)では
“直久 親久等奮ヒ戰フ 死スルモノ百ヲ以テ數フ”・・・・・
(親久は、直久、忠次等と共に久豐の本隊と分かれた別動隊に属した佐多伯耆守。元久葬儀の顛末の項にも名が見えます。)
と、その後の逆転劇を含めて久豐時代の史談のほうが圧倒的に面白いので、半端に終えてしまうのは名残惜しいのですが、ここまでは前置きです[14]。
討死した重臣の中に名前のある直久は和泉家5代目の当主、忠次はその弟。兄弟の供養塔は南九州市川辺町平山に祀られています。和泉家は島津家4代忠宗の次男忠氏を祖とする御一門の家柄で、出水を領したことが氏の由来ですが、川邊で討死した直久には嗣子がなく、ここで絶えてしまいます。
再興に至るのは327年後の延享元(1744)年。島津家22代繼豐が、弟忠郷(21代吉貴六男)を揖宿郡のうち小牧村、岩本村、西方村、及び頴娃郡のうち池田村、仙田村を一邑としてここに封じたことによるもので、氏は今和泉に改められました。当初の石高は3,562石[15]。宝暦年間(1751~1764年)に佐多郷枦山、伊作郷田尻村、飯野郷坂本村、串良郷岩広村等の加増を受け、1万593石となったようです[16]。
今和泉家本邸跡 は鹿児島市大竜町に残されており、指宿市の旧岩本村にも宝暦四(1754)年に設けられた行館/別邸の遺構や没後に帰葬された歴代当主の墓所があります。今和泉家は、この他、麑府内にも田之浦、磯に別邸を所有し、現在“マナーハウス島津重富荘”となっている清水町にあった御一門筆頭重富家の別邸も、かつては今和泉家のものであったようです(このうち田之浦別邸は10代忠剛が弘化四(1847)年に藩に献上し、家政改革充当資金として2,000両が下賜されました。調所広郷が家老を勤めていた時代です[17])。
NHKの大河ドラマで知名度を上げるに至った天璋院篤姫は、和泉/今和泉家10代を継いだ島津家26代斉宣の三男忠剛の娘。28代斉彬の従妹に当ります。生まれは鹿児島の本邸で、数えで17の年には江戸に上りますから、ドラマで描かれたほどに指宿との縁はあったでしょうか。指宿には来たこともなかったかもしれません。ましてや秘かに思いを寄せあったという設定の小松帯刀清廉は肝属氏の流れで、宝暦年間に24代清香が小松姓に改めた旧禰寝家の女婿です。旧禰寝家は文禄四(1595)年に16代重長が豊臣秀吉から吉利を拝領したことで本貫であった根占から転封となり、知行地が現日置市にあったことを考えれば、指宿との接点を探すことも難しそうです(帯刀は家老として在京中の文久四年二月六日(1864年3月13日)に揖宿地頭職にも就きましたが、篤姫が江戸に上って8年後です)。
今和泉家は、玉里(重富)島津氏久光の四男忠欽が継いだ13代の時代に明治維新を迎えます。
今和泉家墓所の東側には、市道に面して 3基の六地蔵塔が並んでおり、その背後に拡がる阿多火砕流堆積物の壁面北側には、今和泉家菩提寺光臺寺が建立された寶暦七(1757)年頃には既に存在していたのではないかと思われる磨崖の五輪塔が刻まれています。中世の遺構である可能性は高いものの、残念なことに詳細は不明です。光臺寺創設の経緯を考えれば、以下の“周辺の史跡③”で触れる源忠寺支院の西光寺由来でしょうか。
今和泉家墓所と六地蔵塔の詳細については、島根大学附属図書館・奈良文化財研究所の“全国遺跡報告総覧”で公開されている“今和泉島津家墓地埋蔵文化財発掘調査報告書(指宿市埋蔵文化財発掘調査報告書第62集,指宿市教育委員会,2019年3月11日)”をご参照ください[18]。
周辺の史跡としてはいますが、私有地ですので立入りはできません。以下は2021年10月24日に鹿児島県立埋蔵文化センター主催、指宿市教育委員会協力で開催された発掘調査の現地説明会の報告です。
上の画像は参道跡横のトレンチ。多量に出土した瓦は搬出済みとのことですが、肥前焼を中心とする陶片が説明会用に残されていました。右の画像の左手前は紫ゴラ。開聞岳貞觀の噴火の噴出物(テフラ層位12-a-4)ですから調査対象となる江戸期の堆積物はさほど厚いものではなさそうですが、土石流や廃仏毀釈運動期の火災の発生の可能性を窺わせる痕跡も認められるとのことです。但し、これ迄のところ礎石、柱穴等は確認されておらず、明確な調査結果を得るためには発掘範囲を拡大する必要がありそうです。この現場を含めて今和泉島津家墓所までの土地は私有地。いろいろと難しいところもあるみたいですけど・・・。
一方、この現場の北側にある石垣が光臺寺の遺構であることは間違いないようです。
寶暦七(1757)年に今和泉家初代忠郷の実父である島津家21代吉貴を祀る光臺寺が建立されるまで、この土地には安泰山源忠寺の支院、西光寺がありました。源忠寺建立の時期は不詳ですが、天文七(1538)年に没した伴姓穎娃氏四代兼洪を揖宿地頭に任じられていた津曲兼任が祀ったとされていますから、おそらくは西光寺も光臺寺より200年ほど古い寺院であったと思われます。この石垣が西光寺のものではなく光臺寺の遺構であると判断された理由は石材として溶結凝灰岩(産地不明とのことでしたが、色合いをみる限り荒平石<阿多火砕流堆積物>のようです)が使用されているという点に加え、その石材の加工技術と組み方にあるそうです。不完全な亀甲型の石材を組合わせる“亀甲崩し”と呼ばれる積み方だそうで、今和泉島津家の墓所にも使用されているという説明を受けましたので説明会後に確認してみました。こちらは算木積みとなっている角の脇石となっているようです。
今回実際に目にすることができて個人的に感激したのは、上左の石垣の遺構の西側寄りにある痕跡。下の画像で中央奥のコンクリートで補修されている箇所です。
何の変哲もない画像なので何を興奮しているか不思議に思われるかもしれませんが、廃仏毀釈運動期に行方不明となった仁王像が1981年に発見された現場だそうです。これまで“民家の石垣の礎石として利用されていた”と理解していたのですが、“私有地となった光臺寺跡の石垣の補修に使用されていた”というのが正確なところのようです。仁王像は、その後頭部が接合されて橋牟礼川遺跡跡地の公園に保存され、2007年6月、光臺寺跡から直線距離で200mほどのところにある豊玉媛神社の鳥居脇に据えられました。
仁王像の来歴は詳らかではありませんが、光臺寺由来とされています。ただ、光臺寺は時宗、西光寺(源忠寺)は曹洞宗でした。曹洞宗の寺院が廃寺となった後に時宗の寺院として再建され、かつての仁王像はそのまま残された、という話は鹿児島市山田町大川内の明楽寺にもありますから、もしかすると西光寺の・・・という連想も働いてしまいますが、こればかりは何とも言えません。
延享四(1744)年 | 和泉家再興 |
寶暦三(1753)年 | 大磯別邸の社を勧進し小牧八幡を建立 |
大磯別邸の觀音堂を岩本村に遷座 | |
寶暦四(1754)年 | 指宿行館建設 |
寶暦七(1757)年 | 西光寺を廃し光臺寺を建立 |
第52集 | 平成24年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・松尾城) | 2013年3月 | |
第54集 | 平成25年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・迫田遺跡・松尾城跡Ⅱ) | 2014年3月 | |
第55集 | 平成26年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・松尾城跡Ⅲ・その他市内遺跡) | 2015年3月 | |
第58集 | 平成27年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・新番所後遺跡・迫田遺跡・松尾城跡Ⅳ) | 2016年3月 | |
第59集 | 平成28年度市内遺跡確認調査報告書(宮之前遺跡・南摺ヶ浜遺跡・松尾城跡V) | 2017年3月 | |
第61集 | 平成29年度市内遺跡確認調査報告書(大園原遺跡・松尾城跡Ⅵ・その他市内遺跡) | 2018年3月 |
吉貫公季子三次郎 吉貫公第十三子母近藤三左衛門喜包女寛保二年二月十二日大磯ノ館ニ生ル ヲ立テ第三男トシ 數兄他家ヲツク 獨忠紀二男トシテ越前家ヲ繼ク 和泉又四郎直久ノ嗣トス 島津氏ヲ賜リ一門ニ列シ 家格備中貴儔次ク 封ヲ薩州穎娃指宿両郷ノ間ニ受テ今和泉ト號シ一万石ノ禄ヲ賜ヒ元服シテ因幡守忠郷ト稱ス
西藩野史,国立国会図書館デジタルコレクション
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