湊川層

周辺の史跡①:捍海隄(かんかいてい)

揖宿氏

今和泉島津氏

周辺の史跡②:磨崖五輪塔

周辺の史跡③:光臺寺跡


湊川層(Mgf)は、幸屋(こや)から宮ヶ浜に流れ錦江湾に注ぐ湊川の河床、河岸に分布する砂礫層で、護岸工事のため露出が大きく縮小してしまってはいるものの、永吉以西の新西方側の流域の所々に残されています。

7万5,000年前頃に噴出した花ノ木テフラに覆われていますが年代は明らかでなく、MATUMOTOの阿多カルデラの噴火後、指宿火山群の活動開始までの間に堆積した更新世の堆積岩ではないかと考えられています。

永宝橋近くの湊川層

湊川には肥後の石工岩永三五郎によるものを含む四門の拱橋が残されています。

 

周辺の史跡①:捍海隄(かんかいてい)

天保四年の暮も押し詰まった十二月廿九日(新暦183427日)に着工し、翌年七月十三日(新暦817日)に竣工という、なかなかの突貫工事で建造された荒平石の国登録有形文化財で、指宿小学校(西方4692-1)校庭南東側の隅に残される石碑にある指宿邑捍海隄記[1]には、“沿海一帯沙渚平淺ニシテ舟舶安ジテマル處無”とありますから、単に防波堤が造られただけではなく、本格的な港湾建設であったかと思われます。天保年間といえば、調所広郷(1776~1849年)[2]が主導した、密貿易を財源の柱とする財政改革の真っ只中です。

 

宮ヶ浜捍海隄

捍海隄記の最後は“公之民ニスル深慮(ニシテ)(フセ)、利、以。人而シテ又之使也”とでも読めばいいのでしょうか(公之為民深慮而善捍患與利以告民之人而又使之知其所始也)。竣工後は調所の庇護を受けた湊の政商濱崎家も拠点の一つとしたという時代背景を考えれば、そうとばかりは言えないような生臭さが漂いますけど。

左の画像は池田火砕流堆積物の上に残る松尾城(揖宿城)曲輪址からのもので、遠景の左が知林ヶ島、右が魚見岳、奥に大隅半島を望みます。クリックすれば、左側手前にある石灯篭の拡大画像が表示されます。


捍海隄近影


 

揖宿氏

幼少より不敵にして、兄にも所をおかず、傍若無人なりしかば、身に添えて都に置きなば惡かりなんとて、父不孝して十三の歳より、鎭西の方へ追下すに、豐後國に居住し、尾張の權の守家遠を乳母とし、肥後國阿曾の平四郎忠景が子、三郎忠國が聟になりて、君よりも給わらぬ九國の總追捕使と號して、筑紫を随へんとしければ、菊池原田を始として、所々に城を構へて楯籠れば、其儀ならば、いで落いえ見せんとて、未だ勢も附かざるに、忠國計を案内者として、十三の歳の三月の末より、十五の歳の十月迄、大事の軍をする事二十餘度、城を落す事数十箇所なり。

保元物語 巻一(黑川眞道編集文舘版)

“新院御所各門々堅めの亊軍評定の亊”

国立国会図書館デジタルコレクション

三十六差したる黒羽の矢負い、甲をば郎等に持たせて歩み出でたる體、樊も斯やと覺えて由々しかりき。謀は張良にも劣ら”ざる、お馴染み鎮西八郎爲朝です。ここにある阿曾忠景は伊作平氏阿多忠景の誤りとされていて[3]、その兄である平姓穎娃氏の始祖三郎忠永の次男五郎(号次郎)忠光が、揖宿氏の始祖となります[4]。指宿市誌(19851025日)に拠れば、前の項で触れた松尾城は3代五郎忠村による造営と推定されているようです。

指宿市系図

 

揖宿氏は、元弘の乱に際しては正慶二北朝(元弘三南朝1332)年に7代成栄(彦次郎忠篤)が大友、少弐、島津勢に従い、筑紫合戦で鎮西探題を倒した後、上洛してこれを届けました[5]。その後、足利尊氏は建武政権から離脱。建武二(1336)年の箱根・竹之下合戦で官軍を破って京に攻め上る頃に揖宿氏は島津氏と共に足利方に転じたようです。その後、足利勢は後醍醐帝の送った追討軍との戦に敗れ九州に落ちて再起の機会を窺うことになるのですが、揖宿氏も島津氏と共にこれに随っています。南九州では肝属、伊東といった南朝方の勢力が旺盛で、尊氏は建武三北朝(延元元南朝)年(1336)年に島津貞久を下向させ、有力国人衆にも守護に随って“肝属八郎兼重 以下兇徒”を誅伐せよとの催促状を送っています[6]。指宿成榮もこれに随いました[7]。ところが翌建武四北朝(延元二南朝三月十七日(1337426日)に懐良親王の侍従三条泰季を迎えると南朝方に転じ北朝方の島津氏と対峙します[8]

 

西方久保の方柱板碑 結局のところ、揖宿氏は明徳三北朝(元中九南朝1392)年の両朝合一後、島津家7代元久(恕翁公;1363~1411年)の時代に、島津氏に被官したと考えられています[9]。指宿は、1409(応永十六)年に揖宿氏8代正忠に代わって阿多加賀守に任され、島津家8代久豐(義天公;1375~1425年)の代に奈良美作守兄弟領となるのですが、奈良氏兄弟は統治不行届きを理由に久豐に逐われます[10]。その後も領主は数度に亘って交替し、伴姓穎娃氏4代兼洪によって島津氏の勢力が駆逐された時代もありました(大永五(1525)年)。頴娃攻めに屈した兼洪が島津貴久に降り揖宿地頭職を許されたのは天文二(1533)年。湯豐(イブ)宿(スキ)郡は2年後に津曲美濃守兼任に任されます。兼洪は更にその3年後に没し、津曲兼任によって建立された源忠寺に祀られました。湯豐(イブ)宿(スキ)郡”と “津曲美濃守”の名が刻まれる久保の方柱板碑は、しばらく後の天文十七(1548)年に祀られたようです。ホルヘ・アルヴァレス(Jorge Álvares~1521の山川来航の翌年で、円相に“妙”と刻まれる、おそらくは大谷石(おおたにいし)の遺構。形状は菅山の方柱板碑に似ていますが大振りです[11]

松尾城は、1571(元龜二)年に始まる伴姓穎娃家の内訌時にも證恩崩れで自刃を命じられる津曲道俊等が拠るところとなりますから、火種の絶えない地域であったのかもしれません。

慶長二十(1615)年の一国一城令により廃され現在は松尾崎神社が祀られていますが、当時の曲輪や空堀の形状は或程度残されていて、継続的に発掘調査も実施されていました[12]。指宿枕崎線が縄張りの中を通過しますから、指宿のたまて箱の海側の車窓からも登城口を確認することができます。



 

今和泉島津氏

松尾城は現在の南九州市川辺町にもありました。

応永廿四年九月(14171019~1117日)、總州島津家の重臣酒匂紀伊守が河邊(川辺)松尾城で主家に叛きます。總州島津家とさまざまな軋轢のあった島津家8代久豐と意を通じてのこととされています。

久豐は戦と権謀に明け暮れる日々を過ごした当主で、その事績を記した西藩野史巻之六国立国会図書館デジタルコレクションには、襲封からここに至るまでの経緯として、概ね
総州島津家騒動
といった事件が記録されています。これだけでは何のことだかお解りになりづらいかと思いますので、詳細は上にリンクを設けている原典をご参照ください。

補足しておきますと、久世の總州家は島津家5代貞久の三男師久が薩摩守護職を継いだことで立てられた分家で、久世は3代目です。伊集院家は島津家2代島津忠時の七男忠経の四男俊忠に始まる家柄で(長子宗長が給黎家の祖となります)、弾正少弼賴久が7代目でした。伊作家は島津家3代久經の次男久長を祖とし、勝久は5代目。絵に描いたような骨肉の諍です。

上の表にある経緯からも伺われる久豐と伊集院賴久との確執には應永十八(1412)年の島津家7代元久の葬儀もかかわっています。

久豐は日向伊東氏への対応を巡って反目して以降、兄である先代元久との折り合いが悪く、伊集院賴久は、その嫡男初犬千代丸(煕久)に島津家を嗣がせることが元久の遺命であったと主張して兵を率いて鹿児島に上り、初犬千代丸を喪主とする葬儀の強行を図りました。

傳云此時賴久カ軍東福寺寶方清水城邊ニ充滿ス 佐多伯耆守親久 北郷中務少輔知久 樺山安藝守教宗 吉田若狭守淸正 蒲生美濃守淸寛 伊地知民部少輔等 胥日議シテ久豐公ツク 日州穆佐アリ 輕騎鹿児島傳云 佐多若狭守 佐多美濃守 樺山伊賀守 末弘某 伊地知某 是に從元久公福昌寺伊集院犬千代 公神主 梵議死者ノ後タル者 神主ヲ奉スルヲ以テ禮トス 賴久衆寺中久豐公憤激ヘス自神主フテ葬禮賴久大(ウラ)伊集院(カヘリ)

西藩野史国立国会図書館デジタルコレクション

この後、賴久は河邊、給黎(喜入)を陥し、河邊城を久世に譲るといった、一行で済ませるには惜しい展開が続くことになるのですが、久豐による実質的な久世謀殺を機に、島津家と伊集院家の間の緊張は更に高まります[13]。最初の衝突は應永廿四年九月十一日(14171024日)。酒匂紀伊守の河邊松尾城に陣を構えた島津勢は、久世の嫡子、5歳の犬太郎を奉じて河邊城に拠る總州勢、援軍伊集院勢に大敗を喫しました。

 

(一)上手ニハ新納近江守 殿手隈江右京亮 上井筑前 八ヶ()四郎左衛門尉平郎(平良カ)討死ス、江州は甲のはちを切ひしかれ大長刀以手之程尽合戰有、傍安楽豐前●()川野土佐両人前之敵之中を切通、江州を取退る、此時平田重宗親類に勘解由左衛門尉 田鍋 津曲なんと被討て、我は城に切通、大寺 美濃守() 長野左京亮は深手負様々助る、田代肥前守(久助)は打死ス、國方者禰寝兄弟 同山本孫五郎 其外宗徒之者共數十人被討 同出羽守深手負助る 蒲生美濃入道死す、親類に中原討る、是聞候なれはさのミ不及注候、

一 下手一家 和泉殿兄弟 又四郎直久 又五郎忠次 給黎 猿渡其外一所而十人計打死ス、是も御内伊地知将監(重春)討る、國方に者 吉田 和田 下田 西村 此手内者數十人 栗野 菱刈打死ス

山田聖榮自記(薩摩国阿多郡史料,鹿児島県史料,鹿児島県立図書館蔵

西藩野史国立国会図書館デジタルコレクションでは

直久 親久等奮スルモノ”・・・・・

(親久は、直久、忠次等と共に久豐の本隊と分かれた別動隊に属した佐多伯耆守。元久葬儀の顛末の項にも名が見えます。)

と、その後の逆転劇を含めて久豐時代の史談のほうが圧倒的に面白いので、半端に終えてしまうのは名残惜しいのですが、ここまでは前置きです[14]

討死した重臣の中に名前のある直久は和泉家5代目の当主、忠次はその弟。兄弟の供養塔は南九州市川辺町平山に祀られています。和泉家は島津家4代忠宗の次男忠氏を祖とする御一門の家柄で、(いづ)()を領したことが氏の由来ですが、川邊で討死した直久には嗣子がなく、ここで絶えてしまいます。 和泉直久・忠次供養塔

再興に至るのは327年後の延享元(1744)年。島津家22代繼豐が、弟忠郷(21代吉貴六男)を揖宿郡のうち小牧村、岩本村、西方村、及び頴娃郡のうち池田村、仙田村を一邑としてここに封じたことによるもので、氏は今和泉に改められました。当初の石高は3,562[15]。宝暦年間(1751~1764年)に佐多郷枦山、伊作郷田尻村、飯野郷坂本村、串良郷岩広村等の加増を受け、1593石となったようです[16]

 

今和泉島津家岩本行館跡 今和泉家本邸跡 は鹿児島市大竜町に残されており、指宿市の旧岩本村にも宝暦四(1754)年に設けられた行館/別邸の遺構や没後に帰葬された歴代当主の墓所があります。今和泉家は、この他、麑府内にも田之浦、磯に別邸を所有し、現在“マナーハウス島津重富荘”となっている清水町にあった御一門筆頭重富家の別邸も、かつては今和泉家のものであったようです(このうち田之浦別邸は10代忠剛が弘化四(1847)年に藩に献上し、家政改革充当資金として2,000両が下賜されました。調所広郷が家老を勤めていた時代です[17])。

NHKの大河ドラマで知名度を上げるに至った天璋院篤姫は、和泉/今和泉家10代を継いだ島津家26代斉宣の三男忠剛の娘。28代斉彬の従妹に当ります。生まれは鹿児島の本邸で、数えで17の年には江戸に上りますから、ドラマで描かれたほどに指宿との縁はあったでしょうか。指宿には来たこともなかったかもしれません。ましてや秘かに思いを寄せあったという設定の小松帯刀清廉は肝属氏の流れで、宝暦年間に24清香(きよたか)が小松姓に改めた旧禰寝家の女婿です。旧禰寝家は文禄四(1595)年に16代重長が豊臣秀吉から吉利(よしとし)を拝領したことで本貫であった根占から転封となり、知行地が現日置市にあったことを考えれば、指宿との接点を探すことも難しそうです(帯刀は家老として在京中の文久四年二月六日(1864313日)に揖宿地頭職にも就きましたが、篤姫が江戸に上って8年後です)。

今和泉家は、玉里(重富)島津氏久光の四男忠欽が継いだ13代の時代に明治維新を迎えます。 和泉・今和泉島津家家譜


 

周辺の史跡②:磨崖五輪塔

今和泉島津家墓所裏の磨崖五輪塔 今和泉家墓所の東側には、市道に面して 3基の六地蔵塔が並んでおり、その背後に拡がる阿多火砕流堆積物の壁面北側には、今和泉家菩提寺光臺寺が建立された寶暦七(1757)年頃には既に存在していたのではないかと思われる磨崖の五輪塔が刻まれています。中世の遺構である可能性は高いものの、残念なことに詳細は不明です。光臺寺創設の経緯を考えれば、以下の“周辺の史跡③”で触れる源忠寺支院の西光寺由来でしょうか。

今和泉家墓所と六地蔵塔の詳細については、島根大学附属図書館・奈良文化財研究所の“全国遺跡報告総覧”で公開されている“今和泉島津家墓地埋蔵文化財発掘調査報告書(指宿市埋蔵文化財発掘調査報告書第62集,指宿市教育委員会,2019311日)”をご参照ください[18]


 

周辺の史跡③:光臺寺跡

周辺の史跡としてはいますが、私有地ですので立入りはできません。以下は20211024日に鹿児島県立埋蔵文化センター主催、指宿市教育委員会協力で開催された発掘調査の現地説明会の報告です。

光臺寺跡発掘現場 上の画像は参道跡横のトレンチ。多量に出土した瓦は搬出済みとのことですが、肥前焼を中心とする陶片が説明会用に残されていました。右の画像の左手前は紫ゴラ。開聞岳貞觀の噴火の噴出物(テフラ層位12-a-4)ですから調査対象となる江戸期の堆積物はさほど厚いものではなさそうですが、土石流や廃仏毀釈運動期の火災の発生の可能性を窺わせる痕跡も認められるとのことです。但し、これ迄のところ礎石、柱穴等は確認されておらず、明確な調査結果を得るためには発掘範囲を拡大する必要がありそうです。この現場を含めて今和泉島津家墓所までの土地は私有地。いろいろと難しいところもあるみたいですけど・・・。

一方、この現場の北側にある石垣が光臺寺の遺構であることは間違いないようです。

寶暦七(1757)年に今和泉家初代忠郷の実父である島津家21代吉貴を祀る光臺寺が建立されるまで、この土地には安泰山源忠寺の支院、西光寺がありました。源忠寺建立の時期は不詳ですが、天文七(1538)年に没した伴姓穎娃氏四代兼洪を揖宿地頭に任じられていた津曲兼任が祀ったとされていますから、おそらくは西光寺も光臺寺より200年ほど古い寺院であったと思われます。この石垣が西光寺のものではなく光臺寺の遺構であると判断された理由は石材として溶結凝灰岩(産地不明とのことでしたが、色合いをみる限り荒平石<阿多火砕流堆積物>のようです)が使用されているという点に加え、その石材の加工技術と組み方にあるそうです。不完全な亀甲型の石材を組合わせる“亀甲崩し”と呼ばれる積み方だそうで、今和泉島津家の墓所にも使用されているという説明を受けましたので説明会後に確認してみました。こちらは算木積みとなっている角の脇石となっているようです。 光臺寺石垣遺構

今回実際に目にすることができて個人的に感激したのは、上左の石垣の遺構の西側寄りにある痕跡。下の画像で中央奥のコンクリートで補修されている箇所です。

光臺寺石垣遺構の補修箇所 何の変哲もない画像なので何を興奮しているか不思議に思われるかもしれませんが、廃仏毀釈運動期に行方不明となった仁王像1981年に発見された現場だそうです。これまで“民家の石垣の礎石として利用されていた”と理解していたのですが、“私有地となった光臺寺跡の石垣の補修に使用されていた”というのが正確なところのようです。仁王像は、その後頭部が接合されて橋牟礼川遺跡跡地の公園に保存され、20076月、光臺寺跡から直線距離で200mほどのところにある豊玉媛神社の鳥居脇に据えられました。

仁王像の来歴は詳らかではありませんが、光臺寺由来とされています。ただ、光臺寺は時宗、西光寺(源忠寺)は曹洞宗でした。曹洞宗の寺院が廃寺となった後に時宗の寺院として再建され、かつての仁王像はそのまま残された、という話は鹿児島市山田町大川内の明楽寺にもありますから、もしかすると西光寺の・・・という連想も働いてしまいますが、こればかりは何とも言えません。

延享四(1744)年 和泉家再興
寶暦三(1753)年 大磯別邸の社を勧進し小牧八幡を建立
大磯別邸の觀音堂を岩本村に遷座
寶暦四(1754)年 指宿行館建設
寶暦七(1757)年 西光寺を廃し光臺寺を建立

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[1] 指宿の指の旁は、匕に日ではなく上に日となっています。
[2] 調所広郷が揖宿神社に奉納した手水鉢 天保三(1832)年に家老格、九年に家老となりました。縄文の森をつくろう会が事務所を置く揖宿神社(東方733)には、弘化四(1847 )年に調所広郷が寄進した手水鉢があります。 調所広郷が湯権現に奉納した手水鉢 自裁の 2年前、調所自裁の年のお由羅騒動で知られる島津家第27代斉興が本殿を改修した年です。
調所広郷の手水鉢は、()月田(がつでん)の湯権現にも小振りのものが奉納されています。湯権現は、これも斉興の時代、天保二(1831)年に、島津家別墅と共に、それまで行館のあった長井温泉から移築されましたが、手水鉢には文政十一年三月(1828414~513日)とありますから、移築前の湯権現に納められたものです。別墅跡の隣接地には、湯殿の遺構も残されています。
[3] 島津家に仕えた山田家の7代目当主忠尚が、“山田聖榮自記(鹿児島県史料集VII,鹿児島県立図書館,1967331日)”で島津家6代氏久について述べている部分に、“如此之謂伯父鎮西之八郎為朝九州之為将軍を聟ニ取、左様之依式躰なり、阿多平四郎忠景此仁なり”とあります。
[4] 頴娃・揖宿郡地誌備考,舊記雑録拾遺 地誌備考一,鹿児島県史料,鹿児島県歴史資料センター黎明館,2014321
[5] 舊記雑録 前編巻十七,鹿児島県史料,鹿児島県維新史編さん所,1979120日。元弘三年五月廿七日付島津道鑒貞久執達状(文書1636);元弘三年七月十三日付大友具簡貞宗貞宗執達状(文書1656);元弘三年七月十三日指宿成榮着到状(文書1654
[6] 舊記雑録 前編巻十八,鹿児島県史料,鹿児島県維新史編さん所,1979120日。足利尊氏軍勢催促状(文書1804~),建武三北朝/延元元南朝1336)年。
   鎮西探題攻めの功により日向守護職に再任され130年振りに本貫三ヵ国を回復した島津貞久は当初朝廷方でした。中先代の乱後に帝と足利兄弟の関係が悪化したことから派遣された鎌倉攻めの尊氏・直義追討軍にも加わっています。足利方に転じたのは建武二北朝年十二月十~十三日(1336131~23日)にかけての箱根・竹之下合戦で足利勢が官軍を破って京に攻め上った頃のようです。京都での戦に敗れ九州に落ちた足利勢の建武三北朝/延元元南朝年/年三月二日(1336413日)の筑前多々良浜の戦いで先陣として高越後守師泰と共に挙げられている“再び京都より供奉の人々”の中に島津の名が見えます(梅松論,校註日本文学叢書 第10巻,廣文庫刊行會,191931日,国立国会図書館デジタルコレクション)。
[7] 舊記雑録 前編巻十八,鹿児島県史料,鹿児島県維新史編さん所,1979120日。指宿成榮着到状(文書1842),建武三北朝/延元元南朝年四月廿五日(1336613日)。
[8] 舊記雑録 前編巻廿,鹿児島県史料,鹿児島県維新史編さん所,1979120日。指宿成榮軍忠状(文書1999~2000),延元三南朝(建武五北朝)年二月五日(133835日)。
[9] 鹿児島ならひ而候と而元久御代に御退治有、百八十町、給黎(キイレ)四十町、並指宿四十町御料所と成、頴娃御退治有而(アリテ)御舎弟南殿御遣(オツカ)候、彼所も四十町也(山田聖榮自記)。島津世家 巻之一(鹿児島県史料集 第三十七集,鹿児島県立図書館,19983月)に拠れば元久が谷山郡司入道佛心を従えたのは應永四(1397)年で、山田聖榮自記にある“百八十町”は谷山。南殿は久豐で、この時に穎娃に封じられたことに因みます。永和二北朝(天授二南朝)年七月廿五日(1376818日)付の10代忠勝から11代将忠(正忠)への譲状(指宿文書,舊記雑録 前編巻廿九文書3511~2,鹿児島県史料,鹿児島県維新史料編さん所,1980121日)が“薩摩國揖宿郡惣地頭職亊”となっているのに対し、應永十六年二月十八日(1409313日)付の12代忠合から13代頼忠への譲状(指宿文書,舊記雑録 前編巻卅二文書7822は単に“薩摩國指宿郡五ヶ名亊”とされています。但し、貞治貮年卯月十日(1363531日)付の島津道鑒(貞久)譲状のうち奥州家氏久分には既に指宿郡が守護領として含まれていました(舊記雑録 前編巻廿七,鹿児島県史料,鹿児島県維新史編さん所,1980121日(文書129(氏久分))。
[10] 三國名勝圖會には、應永十六(1409)年に、奈良氏の圧政に耐えかねて反乱を起こした領民に占拠されたこともあったという逸話が紹介されているものの(巻之二十一 十二,国立国会図書館デジタルコレクション)、應永十六年は7代元久の時代で、久豊が島津家を継ぐのは兄元久が没した應永十八年ですから、上の脚注6で参照している揖宿氏12代忠合の譲状案をみるまでもなく、時間的に錯綜しています。西藩野史(得能通昭,1758年,国立国会図書館デジタルコレクション)では、奈良兄弟に指宿が任せられた旨は、“先頃”とした上で、應永廿六(1419)年の項に“奈良氏治政ノ道ヲシラス騒縱シテ百姓ヲ荼毒ス 衆ソノ憂堪ス叛シテ奈良氏ヲ逐フ 揖宿大亂ル”と記載されていますが、事件から近い文明年間(1469~1487年)にまとめられた山田聖榮自記には、“御内奈良兄弟、指宿之城衆差置(カレ)得者()、傍輩共をせき出し、一向城を持、即指宿殿(リテ)緩怠不及申(申ス)”とあるのみですから、後世になって島津家9代忠國(1403~1470年)の時代の国一揆(永享四(1422)年)との混同が生じた可能性もあるかとも思えます。
[11] 光明禅師の方柱板碑 湯豐(イブ)宿(スキ)”の表記が残されている遺構の中で最も古いものは十町南迫田の光明禅寺にある天文十二(1543 )年の方柱板碑で、それにも“伴氏兼任法名道参”と津曲氏の法名が刻まれており、 水迫の方柱板碑 “湯豐宿”は津曲氏が好んだ表記のようです(現在伝わっている開聞山古事縁起(神道体系 神社編四十五,神道大系編纂会, 1987)の“開聞新宮九社(揖宿神社)”の項には、“指宿新宮 古 湯豐宿也”とありますが、開聞山古事縁起は、枚聞神社別当寺瑞応院37代住職快寶の記述から“世人の要用たらさる”部分を割愛し、“紙數を少めて、人の見やすからしめんが爲に”編集された延享三丙寅歳五月(1745531~629日)の序文のあるダイジェスト版“開聞山古事略縁起”です。頴娃氏の元龜の争乱の際の枚聞神社炎上で焼失した古記にも“湯豐宿”の表記があったか否かを知ることはできません)。
   碑文に“湯豐宿”の表記のある方柱板碑は水迫にもあります。ただ、こちらの紀年銘は元和元年二月(1615228~328日)。島津家15代貴久公が穎娃兼洪を指宿地頭に任じたのは天文二(1533)年。穎娃兼洪は、2年後に指宿地頭を光明禅寺の方柱板碑に名を刻む津曲兼任に任せています。指宿が伴姓穎娃氏の手を離れるのは天正十六(1588)年。頴娃家8久音(ひさふえ)の谷山郷山田への転封によるもので、その後の指宿は島津家直轄領ですから、元和元年の“湯豐宿”は謎です。
[12] これまでの松尾城址発掘調査結果の詳細は、島根大学附属図書館・奈良文化財研究所の“全国遺跡報告総覧”で公開されている 以下の“指宿市埋蔵文化財発掘調査報告書(鹿児島県指宿市教育委員会)”でご覧頂けます。
52 平成24年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・松尾城) 20133
54 平成25年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・迫田遺跡・松尾城跡 20143
55 平成26年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・松尾城跡・その他市内遺跡) 20153
58 平成27年度市内遺跡確認調査報告書(敷領遺跡・新番所後遺跡・迫田遺跡・松尾城跡 20163
59 平成28年度市内遺跡確認調査報告書(宮之前遺跡・南摺ヶ浜遺跡・松尾城跡V 20173
61 平成29年度市内遺跡確認調査報告書(大園原遺跡・松尾城跡・その他市内遺跡) 20183
[13] 久世自裁後の久豐出家は、自らの行為を悔悟してのこととされていますが、如何でしょう。
[14] 伊集院頼久は後に島津家に臣従し、“揖宿氏”の項にある奈良氏兄弟掃討の際には久豐勢に加わって指宿を攻めています(島津世家,鹿児島県史料,鹿児島県立図書館蔵)。ただ、伊集院氏は頼久から7代下った忠真で途絶えました。忠真の父忠棟入道幸侃(こうかん)は、島津家家老ながら秀吉直々に都城に封じられて大名の扱いを受けていました。“謆惑諂諛シテ寵ヲ秀吉及ビ其近臣ニ取リ 威ヲ假リテ驕傲シ 勢ヒ漸ク國中ヲ傾ク(西藩野史,国立国会図書館デジタルコレクション)”。遂には鴆毒を盛っての主家簒奪を図っていることが石田三成の計らいによって島津家18代家久(忠恒)に知られるところとなり、慶長四年三月九日(159944日)、家久自らがこれを伏見で斬殺します。忠真は都城に籠り、1年に及ぶ庄内の乱が勃発しました。騒動は家康の調停により収束するのですが、穎娃に移された忠真が肥後の加藤淸正と意を通じた謀叛を企てていたことが露見して、慶長七年八月十七日(1602102日)に日向野丸で狩を催した帰りに誅殺されます。他所にあった弟小傳次、三郎五郎も討たれ、忠真の母と祖母(忠棟入道幸侃の母)も阿多で自裁。娘一人を残して伊集院家は絶えました。忠真の娘は家久の養女となり(忠真の妻は島津家17代義弘の次女で家久の妹)、後に遠江掛川の松平定行に嫁ぎます。
   彼女とその母親が忠真を弔うために建立したとされる加治木の蓬莱山天福寺の跡には摩崖仏が残されています
[15] 島津國史 巻之三一,島津家編集所,1905730日,国立国会図書館デジタルコレクション1985
[16] 指宿市誌,指宿市役所総務課市誌編さん室,国立国会図書館デジタルコレクション1985
[17] 指宿市誌,指宿市役所総務課市誌編さん室,国立国会図書館デジタルコレクション1985
[18] 報告書では今和泉家初代の諱が“忠卿”となっていますが、このページでは西藩野史に従い“忠郷”としました。

吉貫公季子三次郎 吉貫公第十三子母近藤三左衛門喜包女寛保二年二月十二日大磯ノ館ニ生ル ヲ立テ第三男トシ 數兄他家ヲツク 獨忠紀二男トシテ越前家ヲ繼ク 和泉又四郎直久ノ嗣トス 島津氏ヲ賜リ一門ニ列シ 家格備中貴儔次ク 封ヲ薩州穎娃指宿両郷ノ間ニ受テ今和泉ト號シ一万石ノ禄ヲ賜ヒ元服シテ因幡守忠郷ト稱ス

西藩野史,国立国会図書館デジタルコレクション


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