()(はま)溶岩  ~池田の馬頭観音と池月伝説~

池田馬頭観音の小浜溶岩露頭 小浜溶岩(lob)は、鬼門平断層崖に断面が露出する柱状・板状節理のみられる斜方/単斜輝石デイサイト・安山岩溶岩層で、古期南薩火山群Nop)を覆って池田湖西部に堆積しています。通商産業省資源エネルギー庁の“広域調査報告書「南薩地域」”による推定年代値は、1985年(昭和59年度)では80±60万年前、1991年(平成2年度)では21±2万年前。18±2万年前の幅がありますが、ここでは川辺・阪口(2005[1]に従い古期指宿火山群に属する地質としています。80万年前も20万年前も、神武天皇の父君(あま)津日高日子(つひこひこ)波限(なぎさ)(たけ)鵜草(うがや)葺不合(ふきあえず)(のみこと)(ひこ)波瀲(なぎさ)(たけ)鸕鶿草(うがや)葺不合(ふきあえず)(のみこと)836,042年に及ぶ治政(BC836,701~BC658年)の時代であったことに変わりはありません(140万年前となると、先代の山幸彦(火遠理(ほおり)(のみこと)(ひこ)火火出見(ほほでみ)(のみこと))の時代で、鬼口溶岩よりも古い地質になってしまいますけど・・・“神道五部書”のうち“倭姫命(やまとひめのみこと)世紀国立国会図書館デジタルコレクション”の記載と年代値との比較ですから、基本的に冗談だと思って聞き流してください。

川辺・阪口(2005)で採用された試料の二酸化珪素(シリカ)とアルカリ成分の含有量は、こちらからpop-up表示される図に示す比率となっています。

 

小浜溶岩を流下する集川の滝 集川の滝撮影データ

頴娃側に流下した地形には薩藩名勝志の図版にも描かれた(あつまり)(がわ)の滝が形成されており(左の動画は集中豪雨明けのもので、普段はより近くから露頭を確認することができます。映像クリックで画像を表示します)、指宿側では小浜の馬頭観音の壁面で観察することができます。

九州聯合第二回馬匹第一回畜産共進会協賛会の“鹿兒島縣畜産史(中村初枝等編,1913(大正2)年,国立国会図書館デジタルコレクション)”に、宇治川先陣に名を残す佐々木四郎高綱の愛馬は、頴娃の龍ヶ岡牧場産であるとの言い伝えが紹介されています[2]。 この連銭葦毛の仔馬は、毎夜、母馬と共に“駿逸天馬の空を行くが如”く“懸崖を飛び深潭を渉”って池田湖畔の畑を荒らしていたのですが、ついに捕えられ、その姿から池田湖に因んで“池月”と名づけられて、頼朝公に献上されるまで、この地で飼育されました。子を奪われて嘆き悲しんだ母親は、“神氣漸く沮喪し、既に飛騰自在の靈力を失ひ”、絶壁から転落して絶命したそうです。馬頭観音は、この母馬を悼んで建てられたものである、というのが伝承のあらましです。

 

四郎高綱に与えられた馬は、不本意ながら磨墨を与えられた梶原源太景季が所望していたという伏線や、源太景季が、石切を除けば大悪人のイメージが定着している平三景時の嫡子であるという先入観もあり、宇治川先陣は四郎高綱の姑息なやり口も見過ごされるほどに平家の中でも人気の段ですが、

 佐々木四郎が給はたる御馬は、黒栗毛なる馬の、究めて太う逞しいが、馬を人をも傍をはらて食ひければ、生食と附られたり。八寸(ヤキ)の馬とぞ聞こえし。

“宇治川先陣”,平家物語巻第九(山田孝雄校訂岩波書店版)

国立国会図書館デジタルコレクション

とありますから、“いけき”ではなく“いけき”ですし、連銭葦毛ですらありません。 平家物語画帖のうち宇治川先陣(根津美術館蔵)

源平盛衰記は“生唼”の字を宛て、出自にも言及しています。

とは黒栗毛の馬高さ八寸、太く逞しきが尾の前ちと白かりけり。當時五歳猶もいでくべき馬なり。是れも陸奥国七戸立の馬、鹿笛を金焼にあてたれば少も紛るべくもなし。馬をも人をも食ければ生と名づけたり。

“東國兵馬汰佐佐木生を賜ふ象王太子の亊”,源平盛衰記(大町桂月校訂至誠堂版)

国立国会図書館デジタルコレクション

もっとも参考源平盛衰記の“佐々木梶原池月磨墨の亊義經密謀重忠怪力の亊”では隠岐の國の生まれとなっていて、“能く池を游ぐ故池月”、“後には猪狼鹿などを喰殺すゆゑ生凄”と、異なる表記の“いけずき”への改名説も紹介されていますから何ともいえませんけど・・・国立国会図書館デジタルコレクション

“いけず/づき”伝説は全国各地に数多存在します[3]。その中でも知られるものの一つは、石橋山の合戦に敗れ安房に逃れた頼朝が、再起を期して鎌倉に戻る途中で立ち寄ったことで旗挙げ八幡とも呼ばれる東京都大田区の千束八幡神社でしょうか。近くに、洗足風致協会による“池月の像”があります。そこから直線距離で2.6Kmほど離れたところにある、同じく大田区の慈眼山萬福寺は、開基とされる平三景時の墓所に移設再建された寺院で、山門前に“磨墨像”が置かれています[4]

池田の伝承には、母親が湖に映る自らの姿を我が子と誤って飛び込む溺死バージョンもあるようですが、いけずきは現在よりも水勢が強かったであろう宇治川を流されることなく真一文字に渡りきったほどの馬です。時代は400年ほど下るものの、左馬之助光春(秀満)誉の乗切りも難無くこなせたに違いありません。心神喪失状態にあったにせよ、それほどの子と“懸崖を飛び深潭を渉”っていた母親が果たして溺れたりするものでしょうか・・・・・。

いろいろ考えるにつけ、かなり無理筋の伝説のような気がします。

 

頴娃町郡の馬頭観音 痕跡を確認することはできませんでしたが、鹿兒島縣畜産史に拠れば、馬頭観音像の背後には延享二(1745)年三月小濱某[5]創建云々と彫られていたそうです。また、島津家2代忠時が承久の乱の宇治川合戦で川底の大綱を切って奮戦し功名を上げた、という史実と混同して伝説が成立しているのではないかといった考察も加えられていて、なかなか興味深い資料です[6]

馬頭観音は、牧畜が盛んであっただけに頴娃に多く残されており、右の画像は郡854-1の ㈱一幸敷地内にある遺構です。頴娃町郷土誌に拠れば、平丹(ひらたん)()にあったものが、江戸時代末期に、牛馬の競売が盛んであった吟ノ場に移され、1972年にまた現在の場所に移設されました。元禄六(1693)年癸酉六月吉日とあり、小浜のものより50年ほど古い遺構です。御神体は、枚聞神社に祀られているとのことでした。

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[1] 川辺禎久・阪口圭一“開聞岳地域の地質”,地域地質研究報告-5万分の1地質図幅-鹿児島(15)第100号,国立研究開発法人産業技術総合研究所 地質調査総合センター,2005年,
[2] 頴娃町郷土誌(改訂版;19901220日)に拠れば、牧場は天智天皇の御牧と伝えられる頴娃野、母馬の名はヤラカン号です。
[3] 公益財団法人大倉精神文化研究所の“港北区の歴史と文化(わがまち港北)”第91回“神様になった名馬「いけずき」”(20067月)では、全国39ヵ所で“いけず/づき”伝説が確認されています。
[4] 馬込の伝承に拠れば磨墨はこの土地の産で、亡骸を葬ったと伝えられる場所にも“磨墨塚”があります(萬福寺山門より南東約420m)。ただ、磨墨伝説も全国に存在しますし、源平盛衰記国立国会図書館デジタルコレクションでは、陸奥國三戸立の馬です。
[5] 現地説明板に拠れば、二之丞。
[6] 島津家には兼永銘の太刀“綱切”が伝わっているそうです(西藩野史国立国会図書館デジタルコレクション)。宇治川先陣は元暦元/寿永三(1184)年(平氏は元暦の年号を使用しませんでした)、承久の宇治川合戦は承久記に拠れば承久三年六月十二日(新暦1221710日)です。“鹿兒島縣畜産史”には島津忠時が“先陣に馬を馳せて川を渡り”とありますが、残念ながら先陣は佐々木四郎左衛門尉信綱、もしくは芝田橘六兼能です。次に六騎とおそらくは秋庭三郎。更には七騎、また四騎のうち二騎と打渡し、何れの強者も名を残してはいるものの、その中に島津忠時は見当たりません。これに続く武者が次々と流れの中に姿を消した後、“其後、馬次第ゾ渡ケル。・・・<略>・・・・・嶋津二郎・・・・・<略>・・・、是等ヲ始トシテ、宗徒ノ者共九十六人、打連々々渡シケルガ、助カル者ナク、流者多カリケリ承久記国立国会図書館デジタルコレクション”。二〇三高地の原点のような惨状ですが、忠時は三郎兵衛尉で、文永九(1272)年没ですから、その中に名を連ねる嶋津二郎は別人かと思われます。
吾妻鏡国立国会図書館デジタルコレクションの承久宇治川合戦は承久記の二日後の旧一四日で、“信綱()、先登之號有、中嶋時刻之間、着岸令事者、武藏太郎()同時也。大綱()、信綱太刀(ステ)、兼義乘馬()、水練爲、無爲”と、先陣の功は佐々木信綱と武藏太郎の痛み分け。芝田橘六兼能(吾妻鑑では兼“義”)は馬を射られたために多少遅れをとったかもしれません。綱切は信綱によるものです。
肥後國人吉の相良家にも“綱切(銘宗吉)”が伝わっているようですが、佐々木信綱等と先陣を争った(“球磨郡誌”,熊本県教育会球磨郡教育支会,1941年,国立国会図書館デジタルコレクション)とされる相良長頼も承久記には名前がありません。
尚、元暦元/寿永三年の宇治川の合戦で先陣の功を上げた佐々木四郎高綱の“綱切”とされるものは、“詳註刀劔名物帖(羽皐隠史,1913年,国立国会図書館デジタルコレクション)”に拠れば三振り存在していたようで、刀工にも諸説あるとのことです。

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