周辺の史跡:竹山神社 |
余談:モリソン号事件 |
竹山は、斜方/単斜輝石デイサイト溶岩(竹山溶岩:ltk)により成る標高202m の火山岩頸で、東南東方向に同質の山塊(鳶の口;標高203.7m)と岩礁(俣川洲;標高44m)が、辻之岳・久世岳溶岩ドームと結ばれる溶岩脈(竹山-辻之岳構造線)上に連なり、南側で放射状節理が発達したものも確認できます(上の画像をクリックすれば、動画でご覧いただけます。放射状節理の上部は、残念ながら2016年の台風で少し崩れてしまい、正面からのアングルで左下に見えるのは、自生蘇鉄の残骸です)。推定形成時期は 6±3万年と、かなりレンジが広くなっています。
川辺禎久・阪口圭一“開聞岳地域の地質(国立研究開発法人産業技術総合研究所 地質調査総合センター,2005年,地域地質研究報告-5万分の1地質図幅 - 鹿児島(15)第100号)”で採用された試料の二酸化珪素(シリカ)とアルカリ成分の含有量は、こちらからpop-up表示される図に示す比率となっています。
此竹之山、南の方は海邊より壁立して、形状險絶なり、其高さ二町程絶頂の廣さ方六歩許、又竹山より八町許東に當り、海に臨みて一山あり、鳶之口峯といふ、形状の峻絶、竹山に類す、二山並峙つといへども、其根相連り、二山共に、陸地の方は、漸く低くして、登路あり、二山各嵓石を神體として、古松疎生せり、此兩山天狗の栖止する所なりとて、種々の靈怪あり、
三國名勝圖會 巻之二十二 七
俣川洲 岡兒水、一名湯浦山といへる處の海中に在り、六瀬濱よりは南六町餘もあるへし、 股河洲は、特に立つ大巌にて、高二十丈、回二町餘、中に洞ありて、東西に通透て、さなから門闕を開きたるか如し、廣六間、長八間、高七間許ありて、其中を舟行あり、西には海門山、南には八重嶽なと、遠く遊周て一奇勝たり、
麑藩名勝考(鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1982)
竹山の下に船を繋ぐ船乗りは天狗様の怒りをかうという言い伝えがあります。
1811(文化八)年11月2日の夜、鳶之口の下に停泊した薩摩藩の御用船神明丸に向かって、竹山の上空から光が飛来するや、帆柱の上に提灯を持った山伏のような姿が現れました。皆は船倉に身を隠そうとしますが、ことごとく蹴倒されて気を失い、翌朝気息を吹き返すと、帆柱が捩じ切られていたそうです(三國名勝圖會 巻之二十二 七,国立国会図書館デジタルコレクション)。
落雷としか思えませんけど[1]。
毎年1月に開催される“いぶすき菜の花マラソン”のコースから見上げる竹山は、このような形をしています。
こちらは ⚒F. IKGM 🌋@geoign さんの 2018年8月29日のツブヤキ。ご自身で撮影された画像とフリー素材を合成されたものだそうです。
愛媛県生まれの管理人にとって、最初に指宿に来た時にその風景から受けた衝撃で最も大きかったものは竹山で、爾来その印象は宇和島の牛鬼だったのですが、改めて見直してみると確かに秋葉原感も・・・。
竹之山神祠 山川村にあり、祭神谷山烏帽子嶽權現大天狗なり、山上に石小祠二を建つ、一は絶頂、一は山の七分にあり、
三國名勝圖會 巻之二十二 七
天和三年[2]三月(1683年3月28日~4月26日)の建立で、7分にあるとされるのが現在の奥社でしょうか。竹山の標高は202m。奥社は145mのところにありますから、ちょうど7合目です。右の画像では右側中央のくびれの辺りとなります。4合目付近(81m)にある今の竹山神社の鳥居の手前、左側から伸びる奥社への道を少し進むと、途中、左側に南南西方向によじ登るように続く道があり、これを辿れば、正面に竹山東側から南側の崖、前方左手に長崎鼻、遠景に開聞岳を臨む景色を一望できる絶景ポイントに着きます。竹山の絶壁を覆う蘇鉄自生地は、長崎鼻同様、南さつま市坊津町、肝属郡南大隅町・肝付町のものと共に、1952(昭和27)年3月29日、国によって特別天然記念物に指定されました。下の画像をクリックすれば、動画でご覧いただけます。
頂上にあるとされる祠には、未だ行き着けていません。
三國名勝圖會は四分の社には触れていませんから、現在の竹山神社は新しい時代に祀られたかと思われ、鹿児島県神社庁に拠れば、ご祭神は手力男命、須佐之男命、猿田彦命です。
竹山の西側には赤水岳にかけ児ヶ水(浜児ヶ水・岡児ヶ水)の浜が拡がっています。上の画像とリンク先の動画では開聞岳の手前で、利右衛門さんの生まれ故郷です。
日本人漂流民を帰郷させるべく浦賀に赴いた米国商船モリソン号は、砲撃を受けた後、薩摩に向かいました。山川児ヶ水沖に姿を見せたのは天保八年七月十日(1837年8月10日)。翌日、国家老である日置島津家の但馬久風(赤山靭負、桂久武の父親)が遣わされます。薩藩海軍史 上巻(侯爵島津家編輯所,薩藩海軍史刊行會,1928,Google Books)に紹介されている、事件から2年後に刊行された“ニューデルランドママ、マガジン”の記事に拠れば、水深の測量を許され水は提供されたようですが港内に入ることは禁じられていますから、山川湾ではなく児ヶ水沖に留まったようです。当初は“浦賀の人物よりは、美々しく氣高くして人柄好く見ゆ”土人を乗せた小舟がモリソン号の周りに近づいて見物し、乗船していた漂流民の一人が上陸して情報を収集するなど“諸事至て静”だったのですが、3日目に事態は急変。近づいてきた漁船から乗船した漁民が漂流民に、この船は打払われるからすぐに錨を上げよと告げる間もなく浜辺に陣幕が張られ砲撃が始まります。
後に齋彬公の下で家老を務める新納主税久仰は、当時久風の用人でした。その“長崎奉行江御届書”には、
大隅守領内 大隅國佐多村沖江當月十日相見得候異國船壹艘 寅卯之方江乘行候處 彼邊海上別而荒波之場所故、薩摩國之内 兒ヶ水沖江漂居 漸々近寄候間、差出候手當之人數共 大筒等打放打拂方嚴重取計候處。右船無異儀 東之方遠沖江走出、同十二日夕方帆影相見得不申候付、家老嶋島津但馬 其外手當之人數 都而引取申候。
新納久仰雑譜 一,鹿児島県史料
鹿児島県歴史資料センター黎明館,1986年1月21日
とのみ記されていますが、“ニューデルランド、マガジン”に拠れば、当日は無風状態で、両岸から撃ち出される砲火の中を手漕ぎで射程外に逃れマカオに向かったようです。
事件翌年(天保九年二月)、藩主齋興公は家老久風の進言を容れ、久風と共に児ヶ水で自藩の装備の水準を身をもって認識した鳥居平八と平七の兄弟を長崎に派遣して高島秋帆の下で西洋砲術を学ばせます。平八は早世しますが、秋帆の長崎會所事件の係累を避けるために成田正右衛門と名を替えた平七は、御流儀砲術を薩摩に伝えました。
“海老原清煕履歴概略(薩摩藩天保改革関係資料 一,鹿児島県史料 39,鹿児島県史料刊行会,2000年2月)”では“成田正右衛門ハ兄鳥居平八ナル者長崎ニテ高島ヨリ伝ヘ、平八ハ早ク死シ正右衛門ニ伝ハルコトニナリタリ”と若干の誤認があるようですが(〇一九 薩摩藩軍備ニオケル洋銃採用顛末。平八、平七は天保十年五月に相伝の免許を許されています<薩藩海軍史 中巻>)、正右衛門を調所広郷に引合せたことが薩藩軍制改革の実現につながりました(同 〇九 大砲・銃隊ヲ要トスル軍制改革推進ノ箏)。
蛮社の獄ほどには知られていないモリソン号事件の後日譚です。
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