赤水岳火山

周辺の史跡:利右衛門頌徳碑と徳光(とっこう)神社跡

赤水岳火山噴出物

赤水岳(中期指宿火山)は“フラワーパークかごしま”の背面から(ちょ)(みず)漁港を経て赤水鼻に至る中期指宿火山群に属する山体で、南側で長崎鼻に接する蘇鉄自生地です。周辺では長崎鼻溶岩の噴出からさほどの時間を経ず活動を開始した赤水岳からの火砕噴出物(赤水岳火山噴出物:lak)が長崎鼻溶岩(lng)を直接覆っています。複数の溶結凝灰岩層を含む、主に輝石デイサイト岩質の軽石、スコリアより成る堆積物で[1]MATUMOTO1943[2]では、そこで想定されている阿多カルデラの外縁の一部と考えられていたようですが、荒牧(1964[3]は、MATUMOTOの阿多カルデラ噴出物に覆われる比較的小規模な火山体の局地的な活動による堆積物である可能性が高いとしています。荒牧(1964)で採用されている試料の二酸化珪素(シリカ)とアルカリ成分の含有率は各々68.9%6.3%川辺・阪口(2005)で採用された阿多火砕流堆積物の試料の69.0%6.2%にほぼ等しく、阿多火砕流堆積物の下位にありますが、年代値は得られていません。赤水岳火山の内部構造は上の画像のうち長崎鼻からのものの遠景となっている火砕岩の海食崖で観察することができます。

赤水岳火山の内部構造

長崎鼻溶岩を赤水岳火砕噴出物が覆うという構造は村石(むれし)でも確認することができますが、荒牧(1964)は、堆積様式よりみて長崎鼻の溶結火砕岩が降下火砕堆積物であるのに対し、村石のものは火砕流起源であるとしています。


 

周辺の史跡:利右衛門頌徳碑

山川での見聞を西欧に紹介したアルヴァレスの報告には、米から造った蒸留酒(英:arrack)についての記載もあります[4] 。さつまいも渡来前の焼酎です。

さつまいもは、1712(正徳二)年に刊行された和漢三才圖會(寺島良安編,国立国会図書館デジタルコレクション)では“甘藷(りうきういも) 今云赤芋 俗云琉球芋 又云長崎芋”が“琉球國之有薩州及肥州長崎亦多”とされています(卷之百貳)。一方、これを3年遡る1709(宝永七)年の大和本草(貝原益軒編,国立国会図書館デジタルコレクション)は“蕃薯”に“リウキウイモ・アカイモ”のルビを振り、“今案此物長崎多シ”、続く項にある“甘藷”を“蕃薯ノ類テ別ナリ”、“此種元禄ノ末琉球ヨリ薩州渡ル”としています(卷五 二十二・二十三)。

 

“甘藷”と“蕃薯”の何れが現在の“唐芋(からいも)(鹿児島では“サツマイモ”とは称しません)”の種であったかはさておき、琉球航路といえば“琉球の船もおほく当津に來り風便を待ち安危を伺”った山川です。島津家18代家久(忠恒)が尚寧王と事を構えた慶長十四(1609)年の琉球侵攻も山川港からでした[5] 。指宿の伝承では、唐芋は山川岡兒(おかちょ)(みず)の水夫、利右衛門によって寶永二(1705)年に琉球から持ち帰られたことになっています。残念ながら元禄年間(1688~1704年)ではありません。三國名勝圖會国立国会図書館デジタルコレクションにも“元禄十一年、戊寅の歳、中山王より甘藷一籠を藩相種子島久基に贈りしかば、家老西村某に命じて、久基の采邑種子島石寺野に種ゑしむといへること、其家乘に載たり”とあります。1698年です(かつて種子島は熊毛郡で、薩摩ではなく大隅の一部でした)。“西村某”は権右衛門時乗。“石寺野(下石寺)”で栽培法を確立したのは大瀬休左衛門。種子島を飢饉から救った恩人で、利右衛門さんは琉球ではなく種子島で苗/種芋と栽培法を伝えられた可能性が高いような気がします。種子島は現在も“安納芋”で知られる唐芋の産地です。

然れば甘藷は、利右衛門より始て傳へて得るに非ず、其以前より、既に吾邦に渡りしこと然なれども、土人は云に及ばず、吾藩人といへども、多く利右衛門を始とす、是利右衛門より始て流行せし故なるべし、

三國名勝圖會巻之二十二 二十八

国立国会図書館デジタルコレクション

前田利右衛門墓碑と頌徳碑

ともあれ唐芋神社とも呼ばれる徳光(とっこう)神社の祭神は(たま)(かづら)(おお)御食(みけ)(もちの)命。甘藷(からいも)(おんじょ)利右衛門さんです[6] 。もともと供養堂であったものが廃仏毀釈運動による損傷を逃れるために神社となったともいわれていますが、鹿児島神社庁に拠れば徳光神社への改号は明治十二(1879)年ですから何か別の背景があったのかもしれません。かつての徳光神社は現在の位置にはなく、利右衛門さんの墓所に近い場所に祀られていました。供養堂のあったところかとも思われます。利右衛門さんは享保四年七月五日(1719820日)に亡くなりました[7]。琉球航路での遭難と伝えられています。イングランドとスコットランドの合同法(Act of Union)が成立して、連合王国が発足した年です。


徳光神社跡碑 利右衛門さんのお墓は徳光神社跡碑から直線距離で南東方向に350m程進んだ岡児ヶ水清水にあります。弘化三(1846)年に墓碑の横に建てられた利右衛門頌徳碑にある河野通直は、琉球の砂糖貿易で財を成した山川の豪商河野家の調所広郷による財政改革期の当主7代目覺兵衛で、河野家は、かつて利右衛門さんの奉公先でした[8] 。佐々木廣謙は同じく山川の豪商であった佐々木家の当主。7代目覺兵衛の実父です。

頌徳碑碑文は上の画像をクリックすれば表示されます。

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[1] 太田良平“鹿児島県指宿地方地質調査報告(地質調査所月報,Vol.17 No.31966年)”の“村石(むれし)層”に相当します。噴出物の詳細な分析は、荒牧(脚注 [3])。
[2] MATUMOTO, Tadaiti(松本唯一)“The four gigantic caldera volcanoes of Kyu^shu^(九州に於ける四大カルデラ型火山)”,1943219日。
[3] 荒牧重雄“鹿児島県赤水岳の地質と溶結火砕岩”,地質學雜誌 第70巻第830号,日本地質学会,1964
[4] Reverend COLERIDGE, Henry James “The Life and Letters of St. Francis Xavier”,1876Notes to Book - 2. Account of Japan by Jorge Alvarez)。寺島良安の“和漢三才圖會(1824)”には、(志やう)(ちう)の別名の一つとして、“arrack”と同一語源(アラビア語: عرق‎)と考えられる“阿刺吉(アラキ)(サケ)”が挙げられています国立国会図書館デジタルコレクション。“阿剌吉酒”の表記は、1330年に元の忽思慧が著した“飲膳正要”に倣ったものかと思われます(中國哲學書電子化計劃,原書來源:北京大學圖書館)。
薩摩は、水田耕作に向かないという地質面での制約もあって米に恵まれた土地とはいえませんし、気候が醸造酒の伝播の障害ともなりましたが、とりあえず穫れた米を蒸留酒にはしていた、というのは土地柄でしょうか。甘藷の伝来がなければ、鹿児島の焼酎も熊本の球磨焼酎に類似のものとして残っていた可能性があるかとも思えます。
鹿児島の焼酎はジオの極致です。
[5] 宮ヶ浜の長勝院五輪塔 薩藩名勝志 鹿児島県立図書館蔵は、熊野権現(熊野神社;山川福元6124)の項で、“社殿の前鳥居の内にそのかミ琉球征罸の時公送別の筵をまうけ渡海の軍士に盃酒給ひし跡なりとて竪七八間横弐間許り伏芝の所ありしを天明七年丁未の秋社殿を再興して鳥居を海辺の方に移す 旧跡をさること凡二十間 此時に及て伏芝を除き小路となし左右に土手を築きたりしと村民の語りぬ、公軍艦を異邦に渡されし程の事なれはか丶ることともあるへきことなり、今其記録伝らずとてゆへなく旧跡を除き後世故事を失ふこと惜しむへきに似たり”と嘆いていますが、熊野神社は、道路拡張工事によって更にその姿を変えました。“公”は忠恒。薩藩名勝志の山川港の図版に歌を引かれている家久(琴月)公です。熊野権現境内の本地堂には、頴娃久虎が天正十五(1587)年に納めた棟札があったとされています(三國名勝圖會,国立国会図書館デジタルコレクション)。その年が自身の没年となるとは夢にも思ってはいなかったでしょう。
琉球侵攻時に先代義弘が来泊した宮ヶ浜の長松院は、戦勝を祈願して長“勝”院と改められたとされています。宮ヶ浜には、法印快伝の銘があることから元禄年間中頃(1690年代末)のものと考えられる、長勝院由来の加治木石(安山岩)の遺構が残されています。
[6] 諡は、唐芋で享保の大飢饉(1732~)を凌いだという故事に因んでいます。明治八(1875)年の平民苗字必称義務令により、利右衛門さんは前田姓となりました(平民苗字必可相用旨公布伺,国立公文書館デジタルアーカイブ)。
[7] 利右衛門さん戒名 利右衛門さんの戒名“一翁祖元居士”が彫られた墓石の年月日に拠るもので、碑文にも“星霜既經百一十八年”とあるものの(碑の建てられた弘化三年は享保四年から117年後ですが、おそらくは“数え年”基準によるものかと思われます)、没年を寶永四(1707)年7月とする説もあり(三國名勝圖會,国立国会図書館デジタルコレクション)、墓碑の紀年銘なのかもしれません。
“一翁祖元居士”を祀る碑は鹿屋市串良町細山田にも残されています。“唐芋元祖 一翁祖元居士 俗名 児ヶ水 利(右?)・・・”とまでは判読できるのですが残念なことに紀年銘は確認できず、唐芋の伝播か飢饉がらみかと思われます。ただ、並んで祀られている水神碑は弘化三年十二月十八日(184723日)と、偶然かもしれませんが岡児ヶ水の墓碑と同じ年の遺構です。“一翁祖元居士”碑も同年の建立であるとすれば、河野家、前田(利右衛門)家を含む山川と繋がりのある方々が住んでいらしたのではという想像も働いてしまいます。
[8] 利右衛門さんが奉公した時代の河野家当主は初代(万治三(1660)年~享保二(1717)年)、二代目(元禄三(1690)年~宝暦三(1753)年)であったと思われます。河野家の出自は伊予の水軍であるとされており、確かに愛媛県、特に島嶼部が集中する中・東予地方は村上姓と並んで河野姓の多い土地で、愛媛出身の管理人の経験に限れば、クラスメイトには村上君、河野君がいるはずです(愛媛県は転封で寄せ集まった“伊予八藩”と呼ばれた小藩と天領の集合体で、隣の町に行けば言葉が通じないこともありますから、高校野球で盛り上がる時期を除けば“県民”の概念がありません。状況は町によって異なります)。
島津家三十代忠重の“炉辺南国記(鹿児島史談会,1957121日,国立国会図書館デジタルコレクション)”に宗家の雑煮について“材料の割合はみりん一升、水三合、白みそ二百匁、赤みそ三十匁、これが汁の方の材料で”、“このような材料であるから、甘くて、しつこくて、あまり甘いのでせきが出るぐらいである”との記載があります。鹿児島の料理の味付けは全般に甘口なのですが、山川は特にこの傾向が強いとされ、河野家のお膝元として砂糖の供給に恵まれていたことに依るものとする説があります。御馳走は甘味が強いことが薩摩の風で、自家製の菓子等を供する際の“甘みが足りなくてお口に合わないかも知れませんけど”という意味の謙遜した表現に“琉球が遠ごぁんで”という言い回しもあります。
奄美大島の豊年節で年に二度の来航を願われる“山川観音丸”は薩摩藩に植民地化された島で圧政に苦しみ蘇鉄粥で飢えをしのぐ人々に年に一度食糧を届けた河野家の持船で、後に日向美々津沖で遭難しました。 歌詞は大島郡瀬戸内町のホーム・ページでご覧頂けます。

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