「指宿・頴娃ジオガイド」コンテンツ更新情報

 

2024 12 18

大根櫓の季節になってきたので今年の櫓を見に行こうと頴娃に向かっている途中、大野岳を見上げると切通しが赤くなっていました。気になったので登ってみたところ、法面の一部が損壊したらしく補修工事の最中です。左下の画像は頂上に近い側からのもので手前は大野岳溶岩。その先がいずれまたコンクリートに覆われてしまうであろうスコリア丘の露頭です。普段は植生と法面に覆われて目にすることのできない火砕流堆積物を間近に観察できる絶好の機会に恵まれたので、大野岳火山のページに画像を加え内容を追補しました。大野岳溶岩の画像も差替えレイアウトも変更しています。大野岳のページの地質図に大野岳溶岩は示されていますが火砕流堆積物はありませんから、なかなか貴重な画像ではないかと思っています。 大野岳火砕丘堆積物と大根櫓


2024 10 20

先週実施された鹿児島県地学会の10月地質見学会の報告です。第一工科大学の高嶋洋教授に天降(あもり)(がわ)支流の久留味川流域の湧水帯を案内して頂きました。動力を使用した地下水の利用等を除く0-emissionの湧水利用量で霧島市は日本一だそうで(令和元年水道統計に基づけば29,606m3/日)、市内水道水源の77.8%に達するそうです(鹿児島市が二位(24,475m3・14.6%)、鹿屋市が四位(21,214m3・69.7%))。

見学会前日の講演会の資料で使用されていた長谷川怜思・金子のぞみ・高橋努・飯島康夫・西川順一“シラス台地における水文地質構造と地下水流動機構(日本応用地質学会研究発表会講演論文集2003”の図-2(地質層序と帯水層区分)には入戸火砕流堆積物の溶結部の下位、阿多火砕流堆積物の溶結部の上位に位置する大隅降下軽石層により成る第一帯水層と阿多火砕流堆積物の下位にある第二帯水層という志布志地域の帯水構造がモデル化して示されています。久保田 富次郎・増本隆夫・松田周・古江広治“水質環境と水循環からみた笠野原台地の水文地質特性(農業工学研究所技報 巻203,農業工学研究所,2005331日)”でも採り上げられている層序です。類似の帯水構造は霧島地域でもみられます。地質図のItは入戸火砕流堆積物の非溶結部、いわゆる“シラス”ですが、その下部には溶結部(w)が拡がり、それに覆われて妻屋火砕流堆積物の層が存在。志布志/笠野原の阿多火砕流堆積物に代わる層を加久藤火砕流堆積物が構成します。大隅降下軽石の不圧帯水層(第一帯水層)から湧出しているのは加久藤火砕流堆積物最上位の古土壌層・風化帯が難透水層となっている間隙水、難透水層の下位にある加久藤火砕流堆積物の被圧帯水層(第二帯水層)の裂罅(れっか)(すい)で、高嶋先生は前者を“湧出機構Aタイプ”、後者を“湧出機構>Bタイプ”と分類しておられます。Aタイプの分布は入戸・妻屋火砕流堆積物と加久藤火砕流堆積物の境界の存在を示唆しており、 講演会スライド Bタイプは河川勾配が変化する地点に形成される崖線湧水に近いもののではないかと推察しておられるようです。水質や酸素同位体比の差等は計測されていませんが、湧出量はAタイプでは限られたものとなっているのに対し、Bタイプでは極めて大きいとのことです。

画像は講演会で使用されたスライドで、Bタイプのうち大出水湧水の湧出量は日量4t。隼人町周辺の水道水を賄う奥新川第3水源は同13,000tとなっていますが、これは水道統計の水道水源基準で(大出水は断面流速法)、実際には余剰水も大量に湧出しているそうです。

<追補> 湧水であったとしても先生のAタイプ、Bタイプの何れに属する試料かは不明ですし湖水、河川水等も含まれていますが、既存の文献に紹介されている霧島の自然水の水素・酸素同位体比を温泉水のそれと比較したグラフを作成してみました(“指宿の温泉”)。

溝辺町三縄の露頭 13日に実施された巡検はAタイプの溝辺町三縄から始まりました。入戸・妻屋火砕流堆積物と加久藤火砕流堆積物の境界を確認できる ㈲溝辺油脂敷地内の露頭で、湧出量は日量1t未満と推定されています。今別府牧園線の沿線ではところどころでAタイプの湧水を観察することができます。下の画像は大出水湧水に向かう途中のスポットで、ここでは非地下水が溶結の入戸火砕流堆積物から直接湧出しているようです。画像では判りにくいのですが、かなりぬかるんだ場所もあり、排水溝も設けられています。付近の洞窟地形は、非溶結の入戸火砕流堆積物下部層が浸食され溶結部が天井となっているものでしょうか。将来的には溝ノ口型の洞穴が形成されていくのかもしれません。 今別府牧園線の露頭

大出水湧水下流での小講義 次は201912月の巡検で大木先生にも案内して頂いた大出水。直径1~2m、深さ3m程度の加久藤火砕流堆積物に開いた竪穴の壁面から大量の地下水を噴出するBタイプの湧水ですが、駐車場の手前の小径を入って摩崖仏と小型の貫を過ぎたところでAタイプの水源を観察することができることも教えて頂きました。加久藤火砕流堆積物と妻屋火砕流堆積物の境からの間隙水です。高嶋先生の小講義は大出水湧水の下流でも続いたのですが、右の画像で皆さんが立っておられる河岸は加久藤火砕流堆積物、対岸の岩壁は溶結した入戸火砕流堆積物というお誂え向きのロケーションでした。磨崖仏と貫の由来も気になるところです。 大出水湧水 大出水湧水脇の摩崖仏と貫

御手洗川水源 左の画像は()手洗(たらし)がわ)11月から4月頃にかけては涸れていますが5月頃から大量の水が魚と共に洞窟より溢れ出る霧島七不思議の一つで、高天原の眞名井の水を含むとも伝わります。

巡検の最後はここから神水峡に向かいました。地質図5万分の1霧島火山地質図,地質調査総合センター,産業技術総合研究所,2001年)では御鉢火山噴出物の玄武岩質安山岩溶岩・砕石が薄紫色のOhとして示されていますが、神水峡で観察できるのはこのうち延暦七年三月四日(788418日)の噴火によって現在の霧島神宮が祀られている辺りにまで南西方向に流下した霧島神宮溶岩です(筒井正明・奥野充・小林 哲夫“霧島・御鉢火山の噴火史,火山 52 1号,日本火山学会,2007228)。御手洗川の水源は地質図では霧島神宮が表示されている地点の西側の辺りで、神水峡はそこから南に進んだ地点となります。

御鉢火山の活動は天平十四年十一月二十三日(7421228日)、天永三年二月三日(111239日)、仁安二年(116768年)、文暦元年十二月二十八日(1235125日)、永禄九年九月九日(15661031日)にも記録されており、明治・大正に入っても4度噴火しています(井村隆介・小林哲夫“霧島火山地質図,火山地質図11,経済産業省産業技術総合研究所 地質調査所,2001324日;尚、当該資料と当サイトでは西暦の表記が異なりますが、これは参照資料がユリウス暦、当サイトがグレゴリオ暦を採用していることに因るものです)。筒井 et al.2007)は御鉢山麓に分布する溶岩流を4種に区分し(下位より霧島神宮溶岩、狭野溶岩、神宮台溶岩、高千穂河原溶岩)、火口内に残存するものを御鉢火口内溶岩としました。また、井ノ上幸造“霧島火山群高千穂複合火山の噴火活動史”(岩鉱 83 1号,日本鉱物科学会,198815日)では溶岩流が8種に分類されており、筒井 et al.2007)の霧島神宮溶岩は御鉢溶岩VI・VIIの一部に相当するようです。


神水峡 桜島 ということで〆の神水峡。見事な柱状節理で知られる名所なのですが、今回の巡検のテーマは“湧水”です。

右上の画像の左下に見えているのが霧島川の河床を形成している加久藤火砕流堆積物と柱状節理を形成している御鉢火山の玄武岩質安山岩溶岩の境界から湧出しているおそらくは間隙水。案内して頂くことがなければ気付くこともなかったであろうと思われる霧島の地質遺産です。

おかげさまで視点を変えることを教えて頂ければ見える景色も違ってくるということを改めて楽しめた一日になりました。

ただ、今回の巡検は集合場所が県立博物館横の旧考古資料館前で、家庭内代行を勤めてくれている家内には退屈することのないよう県立図書館で待っていてもらったのですが・・・。桜島がなかなか元気だったようです。


2024 9 16

829日に薩摩川内市に上陸した台風10号は東シナ海を北上しましたし(国土交通省気象庁“令和6年台風第10号による大雨、暴風及び突風の状況について”)28日夜半から翌日午後にかけての停電を除けばさほどの被害をもたらさなかったのではないかと思っていたのですが、久し振りに岩本まで海側を抜ける道路を通ってみたところ、外城市では若干の崩落があったようです。20207月の豪雨でも宮ヶ浜側の崩落で通行止めとなるなど地盤の弱いところではあるのですが、年初に追加した今和泉火砕流のページで紹介している箇所の露頭も様子が少し変わっています。 外城市


2024 8 8

外出先でかなりの揺れを体感しました。帰宅してから震源は日向灘沖でマグニチュードは 7.1(速報)であったことを知ったのですが(国土交通省気象庁“令和1643分頃の日向灘の地震について”)、指宿でも震度4程度を計測したようで、魚見岳東側の崖で崩落が発生。交通規制が敷かれていました。岩塊もこの規模になると防御柵も役に立たないようです。 魚見岳下


2024 5 18

天然橋入口
鹿児島県地学会の原稿の依頼を受けたので川辺を採り上げようと思い、先月から地質遺産の現状確認がてら画像の確保に勤しんでいます。先日、虚空蔵岳の天然橋に出かけたのですが、個人的になかなか面白い発見があったので書き留めておきます。これからお出かけを予定されている方がいらっしゃれば、ご参考まで。


国道225号線を枕崎から川辺に向かって進み県道265号線が合流する地点を過ぎた辺りで、右手に“天然橋入口”の標識が見えてきます。そこから10分程歩いたところが登山道の入口です。これがなかなかの曲者で、下の画像の右が下から続く道。ここで左に別れる脇道が現れ、“天然橋”への矢印はその間に立っています。右か左かで迷ってはいけません。植生の状況によっては躊躇ってしまうかもしれませんが、矢印を信じて二つの道の間に踏み入ってみてください。そこが登山道です。 登山道入口


暫く進むと林道に出ます。すぐに別の林道が横切りますが、整備された見かけの誘惑を退けて、ひたすら登山道を進んでください。謎の経路案内板の立つ場所に辿り着けば正解です。

経路案内板 この案内板には直進すれば“急坂”、迂回すれば“緩道”とあるものの、 ロープ 目の前は攀じ登ることのできる道があるとはとても思えない光景で、“坂”ではなく“崖”です。ここで“緩道”を選ぶことは恥ではありません。“緩道”の先にも、この“急坂”ほどの角度はないとはいえ、かつては登攀に利用されたであろうと思われる同じような植生に覆われたロープだけを頼りに登山道の名残を確認しつつ進まなければならない箇所が待ち構えているからです。

右の画像がそのロープ。強烈な“ツカムナ キケン!”感を醸し出していますが、道標としては有効です。ただ、謎の経路案内板で“緩道”と“急坂”が再び出会う場所からロープに辿り着くまでにも結構苦労するかもしれませんからお気をつけて。

ロープの上端まで辿り着けば、その先はピンクのテープが丁寧に誘導してくれます。ここまでの登山道には案内板らしきものが一ヵ所のみという有様にも拘わらず、天然橋に近づいた途端に目印が整備されていることを不思議に思ったのですが、これには理由がありました。その説明は後回しにするとして、取り敢えずは天然橋の紹介を。 天然橋

虚空蔵菩薩 廃仏毀釈運動により廃寺となってしまいましたが、上山田村には永谷山善(えいこくさんぜん)(しゃく)()という曹洞宗の名刹がありました。天然橋はその“主山”として崇められた山体に形成された地形で、そこに祀られる虚空蔵菩薩が“虚空蔵岳”の名の由来となっています。

主山の(イタタキ) ()(セン)として衆峰に秀て 林木深々 人能至ることなし、中に巖窟あり 表裏貫通して縦横廣闊髙こと二丈餘、窟中に虚空蔵を安す

薩藩名勝志,鹿児島県立図書館

南さつま市・枕崎市寄りの南九州市南西部は、安山岩質の中期南薩火山岩類(Nd)を阿多火砕流堆積物(At)、入戸火砕流堆積物(It)が覆う地形となっていて、枕崎市の下山(くだやま)岳につながる南の尾根筋には南薩火山岩類に属する角閃石安山岩質の凝灰角礫岩が露出しています。虚空蔵岳の頂上にある天然橋でも大きなものでは直径50cm程の礫を確認することができます。


天然橋の道標 さて、荷物を置いて天然橋をくぐった後、虚空蔵菩薩にお参りしたのですが、そこから左回りに荷物を取りに戻る途中で、山頂付近で突然現れるピンクのテープ群の謎が解けることになりました。そこで見かけたのがこちらの“あと20m”の案内板。画像の左端にもテープが見えます。ここに至って苦労して登ってきた伝統的なルートとは別の登山道が存在するのではないかということにようやく気付きました。

Geographica®で作成した下のルート・マップの①が天然橋20m前の道標で、その先には50m前のものもあります(②)。となると、その先を確かめてみたくなり、折角ですから帰りはこちらを利用して下りてみることにしました。右の画像がこちらのルートの先にある登山道入口です。 ルート・マップ_1

ルート・マップ_2

天然橋からこの登山道入口までは約25分。そこから15分ほど歩いて農道を抜ければ松薗の集落に着きます。登りと下りのペース差を考えれば、どちらのコースを選んでも天然橋までは45分程度といったところでしょうか。国道225号線側と比べて緩やかでお勧めし易く、天然橋ゆかりの善積寺跡を組込めば余裕をもって無理なく楽しむことのできるトレッキング・コースといえます。 仁王像案内板


ただ、松薗側の農道には天然橋の入口への案内板と思われるものが見当たりませんでした。もしかするとこちらの登山道入口には違うアプローチを見付ける必要があるのかもしれないとも思ったのですが、辛うじて案内図となっているともいえる善積寺参道跡の仁王像遺構の説明版の地図をみる限り、これが正規のルートととみて間違いはないようです。仁王像から農道までは100mほどの距離です(上の案内板の地図とルート・マップは南北が逆になっています)。

座禅石 善積寺創建の時期は正確には明らかではありませんが、開山の東峰正菊和尚が人々を苦しめていた毒蛇を鎮めたことを賞した島津家五代貞久公に許されたとの伝承があるようですから1300年頃、南北朝の騒乱の時代のようです。右の画像は、その正菊和尚の修行の場であったとされる座禅石です。

寺の西南隅に盤石あり、縦横丈餘平なること盤面の如し、正菊此石上に座して静慮を修習す、よて座禅石といふ

薩藩名勝志,鹿児島県立図書館

下の画像は座禅石の手前にある歴代住職の供養塔他の遺構。そこに至る参道の途中には庚申供養塔も残されています。苔生して判りづらくなってはいますが、庚申塔の裾に彫られているのは三猿です。

よろしければお訪ねになってみてください。 供養塔群



2024 4 26

大木公彦先生講演会@黎明館(202436日)
        黎明館ふるさと歴史講座“地形・地質から見た鹿児島城跡の秘密”

黎明館企画展“伝統と革新の融合 鹿児島城”の一環として開催された講座で覚書を残そうと思ってはいたのですが、年度替わりの時期に天候不順が続いたことが重なり、随分と時間が経ってしまいました。或程度画像を確保することもできましたので遅れ馳せながら。

速記の技術をもつ訳でもなく手許のメモと記憶が頼りですから、実際の講演とはだいぶ構成が変わってしまっているかとも思います。このため補足情報を加えて穴を埋めてみることにしました。文責は全て管理人にあります。

✓ 城山と鹿児島市

お話は鹿児島城(鶴丸城)の北側後方にある城山は最終間氷期の海成層と考えられる城山層(Sf:125,000年前頃)、阿多カルデラ由来の鳥越火砕流(11万年前頃)、姶良カルデラ由来の入戸火砕流It:3万年前頃)、桜島薩摩火山灰(Sa:13,000年前頃)が重なって形成された地形であるというところから始まりました。法面の保護工事が実施されたために観察することができなくなってしまっているものの、スライドで紹介された城山北東部の岩崎口の工事前の露頭は大木 et al.2016(1)の図5でご覧頂けます。この画像での入戸火砕流は上部を僅かに覆っているに過ぎませんが、城山南西部の新上橋(しんかんばし)に向かって地層は下方に傾き、城山層、鳥越火砕流の露頭が確認しづらくなる一方で入戸火砕流の層厚が拡大していきます。城山の浸食地形は縄文草創期に噴出したと考えられる桜島薩摩火山灰に覆われていますから、現在の地形は縄文期に存在したものと殆ど変わらないのではないかとのことです。城山の遊歩道を照国神社側から辿っていけば、既に形成されていた山体地形をマグマ水蒸気爆発で噴出した桜島薩摩火山灰が這上がった痕跡が残されていることを確認することができます(火山灰は降るのではなく、火砕流として足下から吹上がります)。

(1)大木公彦・古澤明・中原一成“鹿児島城趾のボーリング調査で見つかった火砕流堆積物の一考察”,鹿児島大学理学部紀要 巻49,20161230

その後6,000年前頃にかけては縄文海進による海水準上昇が続き、御楼門が再建された桝形の地下にも城山層の上位に沖積層が堆積していることがボーリング調査によって確認されています(大木 et al.2016)の図2)。つまり、縄文中期には現在の御楼門から照国神社の鳥居辺りにかけて海岸線が拡がっていました。海岸線は郡元の鹿児島大学周辺へと続き、キャンパスの敷地が縄文海進期のデルタ堆積物の浸食面。その後の海退期に海浜砂と黒色泥炭層により成る潟が形成されたと推定されています。鹿児島大学工学部で埋蔵文化財調査が実施された際の画像は大木 et al.2011(2)の図4でご覧頂けます。類似の地層は鶴丸城跡から堀を挟んで東側の御厩跡(私学校跡)でもみられたそうです。海進、海退を経て鹿児島市の平野部が形成されていく過程を示したスライドのイメージ図は大木(2017(3)の図13に示されていますが、鹿児島市の約50m下には縄文草創期のマグマ水蒸気爆発で地表面を覆った桜島薩摩火山灰層が存在します。

(2)大木公彦・中村直子・新里貴之・内村公大“鹿児島大学構内遺跡古墳時代竪穴住居跡の床面白砂層について”,鹿児島大学理学部紀要 巻44,20111230

(3)大木公彦“鹿児島城の地形・地質学的背景”,鹿児島国際大学考古学ミュージアム調査研究報告 巻14,201738

スライドには桜島・錦江湾ジオパーク推進協議会のサイトのダウンロード・ページにある“石の文化と火山のつながりマップ(編集 NPO法人かごしま探検の会;監修 大木公彦)”のうち“1. 鹿児島市市街地編(20213月)”も使用されていたのですが、このシリーズは“2. 鹿児島市南部編(20223月)”、“3. 鹿児島市北部・姶良市編(20233月)”、“4. 垂水市編(20243月)”も素晴らしいので是非ご参考に。

✓ 入戸火砕流堆積物

中央公民館側から見た西郷隆盛像の背景となる露頭は入戸火砕流堆積物のものです。ただ、通称として一般的に使用されている“シラス”は非溶結の入戸火砕流堆積物(3万年前頃)にも岩戸火砕流堆積物6万年前頃)にも漫然と使用されている方言なので地質の世界では使用不可であることにつき改めて念を押されました。御説明に使用されたスライドはおそらく大木(2011(4)の画像の図3であったと思われ、間に大隅降下軽石の層を挟む年代値の異なる“シラス”の露頭です。

鹿児島市に堆積した入戸火砕流は甲突川、脇田川、田上川等に削られて入組んだ谷を形成し、市内の“シラス台地”の例に挙げられた(むらさき)(ばる)も谷の間に残された地形です。入戸火砕流堆積物は下方に流下するため“シラス台地”は標高の低い場所に残ります。垂水でも高隅山には入戸火砕流の露頭が見られませんが、一方で麓にある“シラス台地”には浸食が進んでいないという特性があり、数少ない急崖が形成された地域は垂水城、本城、高城といった砦を築くための格好の地形を提供しました。

(4)大木公彦“シラスを知り・活かす”,Nature of Kagoshima Vol.37,鹿児島県自然環境保全協会,2011516

✓ 吉野火砕流堆積物

御楼門の桝形の東側地質断面図(大木 et al.2016)の図2)で城山層の下位にあるのは国分層群に属する小田火砕流堆積物。貝化石の形状から汽水域と思われる層を挟んでその下位には吉野火砕流堆積物(Yp)が存在します。吉野火砕流堆積物、入戸火砕流堆積物とこれらを覆う火山灰層の説明に使用されたのは大木(2017)の図5でした。

()礼岡(れがおか)赤崩(あかくえ)といった山体の見られる吉野台地の北には(おもい)(がわ)の流れる断層があります。この他にも(あべ)()(がわ)、長井田川といった河川を産んだ断層に囲まれる吉野台地は隆起によって形成された地形であり、姶良に抜けて加治木に至る大口筋の一部を構成する白銀坂(しらかねざか)の上部平地では貝や水棲生物の巣穴の化石を確認することができます。

江夏友賢亀趺墓 その加治木は島津義弘公の隠居所が設けられた地で、縄張りに関わったのは易学・風水に通じていたとされる黄友賢。後に(こう)()姓を与えられ、鶴丸城築城地・縄張りにも名が見えます(鹿児島御城加治木御屋形之縄張友賢被仰付候,本藩人物史 第八巻,鹿児島県史料集 XIII,鹿児島県立図書館,1973331)。何れも北側の山体が冬の季節風を遮り、南側の海から適度な湿気が供給されることで建造物の耐久性が保たれることに加え、加治木では(ふた)瀬戸(せと)(鍋倉火砕流堆積物)、鹿児島では(たん)鼕々(たど)(吉野火砕流堆積物)という石材の調達が可能でした。

補注:三國名勝圖會には鶴丸城築城に関し以下の記載があります(“公”は十八代家久公(初代藩主)、本御内は現在の大竜町内城跡界隈です)。

公、豫め投化の明人江夏友賢に命じて、此地を卜せしめらる、友賢占して曰、是四神相應の地にして、大吉なり、於是屋形を巽位に向て構へ、鹿兒島御内 御内の跡、本御内と唱へ、今大龍寺の地是なり、 より、府治を此に徒して、千年不拔の基となし給へり国立国会図書館デジタルコレクション

地形と建造物の耐久性については、周りを平野に囲まれる薬師寺の傷みは激しいが山体の南側に建立された法隆寺の木材は保存状態が良好という法隆寺の故西岡常一(つねかず)棟梁の談話も紹介されています。また二瀬戸石の遺構の一つ日木山宝塔のお話も。北塔塔身と南塔に使用される砂岩は組成が特殊で、天草由来とみてまず間違いはないのではとのことです。

鶴丸城では撻鼕々石が石垣(案内板に石材の説明あり)、御楼門礎石(強度と建築技術は載荷試験によって証明済)の他、排水溝にも使用されています。排水溝は発掘後に埋め戻されており、現在見ることのできるのは複製ですが、文化庁の指導に従い、遺構同様、石材には撻鼕々石が使われました。

外御庭跡の発掘調査 補注:こちらは2017年の外御庭跡の発掘調査の様子。サイト管理人は現在は禁煙していますが当時は喫煙者で、二ノ丸跡にある県立図書館の屋外喫煙所の目の前が発掘現場だったことを幸い一服がてら何度かのんびりと見学させて頂きました。排水溝と井堰の遺構が確認されている場所で、石垣の中位から下位の複数箇所に排水口があり、御楼門周辺、御角櫓の排水溝からもここに流れ込む構造となっていたと考えられています。 外御庭の排水溝跡

御楼門再建に先立って実施された調査の報告書は島根大学附属図書館・奈良文化財研究所の“全国遺跡報告総覧”で公開されています。

鹿児島県立埋蔵文化財センター“鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書(205鶴丸城跡保全整備事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書1 鹿児島(鶴丸)城跡 -御楼門跡周辺-”,20203

鹿児島県立埋蔵文化財センター“鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書(214鶴丸城跡保全整備事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書2 鹿児島(鶴丸)城跡 -北御門跡周辺・御角櫓跡周辺・能舞台跡ほか-”,20223

尚、溶結凝灰岩を石垣に使用した城郭は鶴丸城の他には豊後竹田の岡城しかないそうです(阿蘇由来。福井城はより古い時代の緑色凝灰岩で非溶結)。

鹿児島市内で石材としての吉野火砕流堆積物を見ることのできる遺構は他にも仙厳園の千尋巖(せんじんがん)露頭と反射炉跡、新波止臺場跡、今和泉島津家本邸跡、重富島津家本邸跡といったところがあります。但し、今和泉島津家、重富島津家本邸跡は石塀が撻鼕々石、歩道の敷石が()(だな)石です。

鹿児島は石炭資源に恵まれず、斉彬公の集成館事業も動力を木炭、水力に頼ったものでしたが、ここにも溶結凝灰岩が関わっています。関吉疎水溝は両側を溶結凝灰岩に挟まれた箇所の地形を利用して水勢を強めるための堰を設け下流で水車を稼働させました(5)。寺山炭窯跡、仙厳園反射炉跡といった産業遺産にも撻鼕々石が使用されています。 関吉疎水溝跡

(5)大木公彦・深港恭子・寺尾美保・田中完・桑波田武志・松尾千歳“集成館事業に使われた疎水溝の地形・地質学的考察”,鹿児島大学理学部紀要 巻43,20101130

✓ 鶴丸城の水

城山は岩崎谷によって分断される独立した山体です。僅かながら湧水も存在し、内堀にも本丸の外れからの湧水が利用されていたのではないかと思われるとのことです。“ブラタモリ #98 鹿児島 I”でも入戸火砕流堆積物に蓄えられた雨水が下位の城山層に遮られて城山自然遊歩道に染み出している様子が大木先生に紹介されていましたが、城山自体の給水・貯水能力は極めて限られています。

鶴丸城の主な水源は吉野台地に蓄えられた雨水でした。吉野火砕流堆積物は柱状節理の発達した溶結凝灰岩で、(あべ)()(がわ)断層の存在により寺山から城山にかけて緩やかに(2.4°程度)傾斜して分布し(大木(2017)の図6)、南洲墓地の辺りまで地表で観察することができます。下位には水が透過しにくい海成層である()(くら)層(Kf補注:吉野火砕流堆積物、花倉層の露頭の画像は2021522日の鹿児島県地学会地質見学会の覚書でご覧頂けます)。この構造により吉野火砕流の分布の南西端の縁には七窪、金水、明ヶ窪、日当(ひなた)(びら)、玉里、冷水(ひやみず)といった湧水・取水ポイントが並んでいます(“給水区域及び施設の現況(令和2年度末)”,鹿児島市上下水道ビジョン 令和4年度~13年度(2022年度~2031年度),鹿児島市水道局,20223)。吉野台地は鹿児島市の貯水池であり名水の水源です。

冷水水源地の天保の水神碑 鶴丸城には冷水から導水されました。天保十年己亥五月十六日(1839626日)の銘のある冷水の水神碑碑文に“楚も此の御用水のはしめは享保八癸卯のとし御造初ありて”と記されていることで、1723年、22代繼豐公の時代の開鑿と考えられています。鹿児島市立ふるさと考古歴史館には発掘された溶結凝灰岩の石樋のうち二ノ丸から出土したものが展示されています。 ふるさと考古歴史館の石管遺構


補注:水神碑は機能低下が著しい御用水道の本格的な修理の完工を記念したものです。

當天保十亥年(まで)百弐拾四年相成 ものかは(物変)り時移り 久しくなりゆくまゝに人もいりかわ(入変)り かのよしあるをもわきかね 薗の樹木おのれニ生茂り根さし長く()()なか()れを()さし ()れ水多く いはんかたなく仮初(かりそめ)の御修()にてなかならぬ()しきなれこのたひ新刻石をもて御城内まて七百四拾間のあいた御仕調 あらた()水神を建立するものなり

124年ではなく116年後のはずですけど・・・。それとも“享保八癸卯のとし御造初ありて”は竣工の意で着工はその 8年前ということなのでしょうか。“鹿児島県維新前土木史(鹿兒島縣土木課,19341215日)”、“鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書 26:鹿児島(鶴丸)城本丸跡(鹿児島県教育委員会,1983330日)”には碑文が伊地知季安の著した“管窺愚考(旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集六,鹿児島県歴史資料センター黎明館,2006131日)”に水神塚記文として紹介されているとの記載がありますが、“管窺愚考”の伊地知季安自序は天保四(1833)年葵巳四月、清水新納時升伯剛撰文は天保甲午(1834年)三月です。伊地知季安の他の著作で触れられているか或は自身の銘文である可能性は考えられるものの、島津の庄の由来と初代忠久一代記を中心に構成される“管窺愚考”は御用水道とは無縁かと思われます。

水神碑のあるのは鹿児島市水道局所有地で立入が制限されています。保存状態は良好で敷地の外からも碑文の最初の1/3程を或程度読み取ることができなくはないのですが、上の碑文の内容は西元肇“藩政時代の冷水水道遺跡2001713日,鹿児島県立図書館蔵)”で紹介されている拓本を参考としました。

城山の近衛の水 城山自然遊歩道には“近衛の水”と呼ばれるスポットがあります。石管で城内まで導水された冷水の“近衛水”を貯水した“箱水”の遺構です。

近衛水 府城の西北 坂本村、冷水、本郷氏宅地にあり ・・・<中略>・・・ 文禄・慶長の際、近衛關白信輔、鹿兒島に來給ひし時、硯の水に用られしとぞ、よって近衛水といふの傳へあり国立国会図書館デジタルコレクション

吉野台地の北側に位置する吉野開墾社跡(東郷元帥が揮毫された南洲翁開墾地碑があります)の地質は寺山玄武岩(補注:下位に大崎鼻安山岩、竜ヶ水安山岩)ですが、露出した帯水層からの湧水も多く、近くに寺山水源地があることをみても吉野台地が鹿児島市の水瓶であることは明らかです。 寺山水源地

✓ その他

寺山炭窯跡横の溶岩露頭 この辺りから時間が押してきたためにお話しは駆け足となってしまったのですが、下手に内容をまとめるより先生の“鹿児島湾の謎を追って(かごしま文庫61,春苑堂出版,2000620日)”、特に“姶良カルデラと桜島の誕生”の章をお読み頂いた方が概略をカバーできるのではないかと思います。蛇足ですが、姶良カルデラの外輪山である吉野台地は溶結凝灰岩のみで形成されている訳ではなく、かつて存在した火山から噴出した溶岩にも覆われる部分があり、吉野公園の展望台のある場所も溶岩。溶岩の露頭は寺山炭窯跡でも観察することができる、というお話に出てきた炭窯横の露頭が上の画像。2019223日に撮影したもので、画像をクリックして頂ければ、その4ヵ月後に大雨の被害を受けた炭窯の損壊前の姿がpop-up表示されます。


90分に及ぶ講義のまとめとしては心許ないものになってしまいましたが、できれば黎明館ふるさと歴史講座に定期的に大木先生の時間を組んで頂ければと思います。当初の案内では80席の3階講座室で開催される予定だった今回の講演会も、応募者多数ということで会場が2階講堂(245席)に変更されましたし。

鹿児島市水道局前の高枡 今回の講義では触れられていませんが、右の画像は鹿児島市水道局の玄関前に保存されている高枡。御用水道の分岐点で水量を調整していた配水塔です。最後に今回の講座の参考資料として適当ではないかと思われる論文のいくつかを挙げておきます。

大木公彦・早坂祥三“鹿児島市北部地域における第四系の層序”,鹿児島大学理学部紀要(地学・生物学)巻3,197012

早坂祥三・大木公彦“鹿児島市地域のボーリング資料にもとづく地質学的考察”,鹿児島大学理学部紀要(地学・生物学)巻4,197112

大木公彦“鹿児島市西部地域における第四系の層序”,鹿児島大学理学部紀要(地学・生物学)巻7,197412

大塚裕之・西井上剛資“鹿児島湾北部沿岸地域の第四系”,鹿児島大学理学部紀要(地学・生物学)巻13,19801230

大木公彦“鹿児島県に分布する後期更新世海成層の堆積環境とネオテクトニクス”,南太平洋海域調査研究報告 巻32 有孔虫からみた環境と古環境,1999730

森脇広・ 松島義章・杉原重夫・大平明夫・大木公彦・増淵和夫・弦巻賢介“鹿児島湾北岸,国分平野における過去15,000年間の海面変化と古環境変化”,第四紀研究 54 4号,201585


2024 3 12

先週 9日の NHKブラタモリ®最終回となった #263 指宿。都合でリアルタイムでは視られず録画で視聴したのですが、期待していただけにあまりにもあまりにもあまりにもガッカリな内容で思い出したくもない NHKブラタモリ®史上最低の黒歴史回になっていました 💀💀💀。阿多カルデラは MATUMOTO、山川-松ヶ窪構造線上にない池田火山もマール群とひとまとめ・・・・・。墓場回にふさわしい体裁に仕上げられたものなのでしょうか。これ以上指宿市にもNHKにも期待するものは残っていません💀💀💀。大木先生の御解説は、おそらく、編集上全カットだったのでしょう。

脱力感しか残らない放送であったとはいえ、おかげさまで指宿に興味をもってくださった方は少なからずいらしたようで、サイトへのアクセスが結構な伸びを記録していたことがせめてもの慰めです。 Bing検索 Bing検索

安全にご案内できるところが限られる土地ですが、これをきっかけに巡検を思い立って頂ければ幸いです。


2024 2 24

一昨日222日は“ニャンニャンニャン”で猫の日だったそうです。SNSを覗いていたところ島津家三十代忠重の“炉辺南国記”を引いて鹿児島で茶トラが“ヤス猫”と呼ばれる所以に触れていた投稿があったのですが、時系列的にあり得ないのではないかと思い、改めて確認した上で“ヤス猫”の項を“山川マール・成川マール”のページに追加しました。このページに追加したのは山川のフェリー乗り場の名物ヤス猫兄弟の画像を確保していたことを思い出したことによるもので、この機会に全体のレイアウトも見直しています。

また、“炉辺南国記”に目を通していて島津宗家の雑煮についての記載もあることに気付きました。かなり極端な味付けなので“赤水岳火山”のページの“利右衛門さん”の項の8のうち薩摩の味の補足資料として参考になるかと思い引用してみました。

“炉辺南国記”は参考文献にも加えましたが、“送信サービスで閲覧可能”カテゴリーですから閲覧には国立国会図書館デジタルコレクション利用者登録が必要となります。


2024 2 23

Bluesky®のアカウントを開設し、バナーにリンク付ロゴを追加してみました。第一回投稿記念に番組終了直前に滑り込んだNHKブラタモリの39日放送告知ページ(#263 鹿児島・指宿)をリポストしてみたのですが、リポスト元のurlの画像が自動的に表示されないなどの問題もあるようです。使い分けをどうするかは検討中ながら、X®と比べれば字数制限を気にしなくてもよさそうですから、利用者数が拡大してくれば、ロゴの順番もいずれ変わるかもしれません。

Facebook®は既に他のSNSアカウントのないジオ/ジオパーク関連情報を拾うためだけに維持しているような状態なので、そのうちページを廃止してバナーからも外すことも考えています。


2024 2 4

二瀬戸石石切場巡り 加治木町まちづくり協議会様主催の“(ふた)瀬戸(せと)石の(焼山)石切場巡り”に参加させて頂きました。加治木石の石切場跡は10ヵ所以上で確認されており、うち4ヵ所が焼山にあるそうです。

野元・薗田(1954*でも加治木石の産地は“鹿児島県姶良郡加治木町反土日木山、奇峯蔵王嶽南に接するニ瀬戸山”で“弱く珪砂作用を受けた硬質の砂礫凝灰岩からなる屋根型の丘陵”とされています。大木(2015**では大塚・西井上(1980***の鍋倉火砕流堆積物です。


*野元堅一郎・薗田徳幸“加治木石について”,鹿児島県工業試験場研究報告,鹿児島県工業技術センター,1954
**大木公彦“鹿児島に分布する火砕流堆積物と溶結凝灰岩の石材”,鹿児島国際大学考古学ミュージアム調査研究報告 巻12201536
***大塚裕之・西井上剛資“鹿児島湾北部沿岸地域の第四系”,鹿児島大学理学部紀要(地学・生物学),19801230

下の画像は案内して頂いた採石場跡。大塚・西井上(1980)で“日木山においては・・・灰白色を呈する溶結凝灰岩”と記述される露頭です。鹿児島神宮に通じる旧街道が焼山坂にかかる途中を折れた場所にあるのですが、今回の巡検のために採石場までの廃道を整備しておいてくださいました。二瀬戸石と総称されますが、実は二瀬戸は焼山の北側で、南側は塩木山、南西は千迫の石切場。二瀬戸石は他の焼山石と比べれば軟質で気泡痕が小さいそうです(折見信則“加治木石と鋳物業”,加治木史談会 学習発表資料,20211118)。千迫は縄文時代を中心とする遺跡も発掘された地区ですが、高速道路の開通に伴いかなり様子が変わってしまっているようです。 焼山採石場跡

焼山の石材搬出機材 焼山は露頭の宝庫で他にも紹介したい採石跡や残念石が豊富に存在するのですが、レイアウトの都合で他の画像は諦めざるを得ませんでした。石材の搬出に使用されたウィンチやワイヤーも残されている魅力的なスポットで、お訪ねになるようでしたら塩木山へは焼山坂から、二瀬戸へは里の田ノ神さぁの脇からというのが無難なコースでしょうか。ただ、案内してくださった協議会会長様のお話では目的地までの経路を問題なく辿ることのできる期間はさほど長くはなさそうで、すぐに元の廃道の状態に戻ってしまいそうです。

里の田ノ神さぁ 左の画像が二瀬戸石採石場跡への目印代わりの里の田ノ神さぁ。天保年間(1830~1843年)頃の石工 名島喜六の作と伝わります。加治木郷土館新中公民館西之原公民館にも同系統の遺構がありますが、何れの出来栄えもこれにかなうものとは思えません。成川(かん)()の田ノ神舞の一場面を連想させる堪らない意匠です。

ところで三國名勝図会第三十七巻 姶羅郡加治木国立国会図書館デジタルコレクションで物産として先ず紹介されているのは“西別府村、桃木野に産す”桃木野石(桃木石)で“其色紫黑、石質潤密にして、稍柔なり、・・・<中略>・・・俗に加治木石と呼ぶ”とあります。一方の二瀬戸石については“白石 日木山村の内、二瀬戸に産す、此石亦佳品なり”と記載されるのみで、加治木石といえば二瀬戸石という現在の認識とは異なっていたようです。大木(2015)では桃木野石が二瀬戸石の“白石”に対し“黒石”と呼ばれていたことから郡山志布志で採石されていた黒石と同じく阿多火砕流の溶結凝灰岩である可能性が示唆されています。黒川(2021****は、惠燈院から福昌寺に移設された島津家子女の供養塔の殆どが阿多の黒石であり、その中に石材が蒲生町下久徳(しもぎゅうとく)から切出された記録が残るものがあることから、桃木野石を阿多の溶結凝灰岩としました。

****黒川忠広“薩摩藩主島津家墓所における石材産地の一事例と招魂墓”,研究紀要・年報 縄文の森から 第13号,鹿児島県立埋蔵文化センター,20213

114日の項に付した地質調査総合センターの地質図では桃木野石、二瀬戸石何れの採石場跡も国分層群の凝灰岩層(Kf)に位置し、その一帯に阿多火砕流堆積物の分布を確認することはできません。大塚・西井上(1980)には鍋倉火砕流堆積物が加治木町桃木野にも分布するとの記載があり、二瀬戸石と類似の石材が変質したものである可能性もあるかもしれません。下の画像は先月桃木野に立寄った際のものですが、“黒石”の由来を慮り難く“白石”に見えなくもない鍋倉火砕流堆積物様の岩相です。

“加治木町弥勤および日木山においては、本火砕流堆積物は灰白色を呈する溶結凝灰岩となる。1~3cm径の軽石および火山岩片を多く含んでいる。また姶良町鍋倉(模式地)、加治木町桃木野および隼人町東郷付近では本火砕流堆積物に層状構造の発達がみられる。”,大塚・西井上(1980

桃木野の採石場跡 竹之内茂“桃木野石の採石場跡(あいらの歴史と物語 第34号,あいら歴史ボランティア協会,2018712日)には桑迫、伊良ヶ迫の桃木野石採石場跡の画像があり、上の画像のものとはどうも岩相が違うように見えます。加治木石としての認識の逆転現象を含め謎の地質遺産で、この他に樋ノ迫石、陣の石、高岡石とされるものもあったようです(折見( 2021))。

といったモヤモヤ感は頭の隅に残ったままですが、折角ですから採石場跡以外にご案内頂いたスポットも紹介させて頂きます。

精矛神社 先ず集合場所は島津家17代義弘公が(くわし)矛厳健雄(ほこいつたけをの)(みこと)として祀られる精矛神社。宮司様は NHK新 街道をゆく ~ 肥薩のみち”にも出演されていた加治木島津家御当主です。

関ヶ原後に領地を安堵された義弘公は現在加治木高校、()(じょう)小学校、加治木郷土館/図書館、加治木護国神社のある仮屋町界隈に隠居所を設けて隠棲し、元和五年七月二十一日(1619830日)に亡くなります。御霊屋が祀られた本誓寺が廃仏毀釈運動で廃寺となったことに伴い館跡に精矛神社を造営。公の三百回忌に当たる大正七(1918)年に加治木島津家別墅跡であった現在の場所に遷座されました。大正七戊午年年十一月とあることから遷座時に建立されたと考えられる手前の一の鳥居が塩木山、館跡から移設されたと思われる明治廿六(1893)年癸巳十月の銘のある二の鳥居と祖霊殿前の鳥居が二瀬戸から切出された石材とされています。ただ、一の鳥居を納める際、切出した石の一つが搬出時に破損したために納め直したという話もあるようで、折見(2021)は本殿に向かって左の柱が二瀬戸、紀年銘の刻まれる右の柱が塩木山ではないかとしています。

柁城小学校 ()(じょう)小学校の校名は義弘公の隠居所“柁城”の敷地に建設されたことによるもので、前身は加治木島津家六代久微(ひさなる)が天明四(1784)年に創設した郷校“毓英館(いくえいかん)”。“柁城”は読みを変えれば“カジキ”。町名の仮屋町は地頭仮屋由来で、加治木石の石垣が続く街並みです。

加治木得名の由緒 加治木の名は、天盤(あまのいは)樟船(くすふね)の舵より起れり、髙古天盤樟の船に蛭兒を載せて、風に順て放ちしが、此處に漂ひ着しに、其舵より蘖芽(ひこばえ)を生して、大木となる、昔し自然に火を發し燃たりけるが、再び生出しとぞ、其木は、今邑治の通路にある老樟樹なり、邑名を加治木と號するは、此縁故なりとぞ、因て加治木の文字又柁木とも書く、

姶羅郡加治木,三國名勝圖會 巻之三十七,国立国会図書館デジタルコレクション

これも高速道路の開通に伴い失われた遺構となってしまいましたが、焼山坂には樟脳工場があったそうです。地名の由来からして樟がらみですし、姶良市内には蒲生の大楠もあるくらいですから藩政時代に樟脳の一大産地であったとしても不思議はありません。三國名勝図會(国立国会図書館デジタルコレクション)でも加治木の“物産”のうち“樹木類”に“樟”が挙げられています。

下左の画像は日枝神社。鳥居は二瀬戸石のようです。鹿児島県神社庁に拠れば御祭神は(ひこ)穂穂出見(ほほでみ)(のみこと)瓊瓊杵(ににぎ)(のみこと)伊奘(いざ)冉尊(なみののみこと)(かしこ)(ねの)(みこと)。元和七年辛酉四月八日(1621528日)の再興で創建年不詳とされていますが、古くは山王社と称し、()(よし)大社を総本宮とする全国の日枝・山王・日吉神社同様、大山咋(おおやまくい)(のかみ)が祀られる社であったようです。

日枝神社参道脇には日木山宝塔があります。梵字で塔身に金剛界四仏(阿弥陀如来・阿閦如来・宝生如来・不空成就如来)の刻まれる南の大塔(画面右奥)が253cm。胎蔵界四仏(無量寿如来・宝憧如来・開敷華王如来・天鼓雷音如来)の刻まれる北塔は小塔と称される235cmの遺構ながら、相輪が欠損していなければ3mを超えていたと思われます。北の小塔の笠と基礎は二瀬戸石。風化して判読不能となっていますが、砂岩の塔身に“寛元元年葵卯七月○日(1243726~823日)”の銘があったそうです。“仁治参年壬寅三月廿五日(124253日)”の紀年銘のある南塔は砂岩。何れも紀年銘の時代にこの地域を治めていた加治木肝付氏の眷属を祀ったものとも言われるものの、諸説あるようです。 日枝神社と日木山宝塔

加治木肝付氏供養塔群 その加治木肝付氏の遺構は東禪寺跡に保存されています。右の画像の右手前のものが加治木肝付氏五代 弾正忠兼寛を祀る供養塔(東禪寺跡の説明版では兼寛は(加治木入城後)三代目となっていますが、三郎五郎兼光を元祖とする肝付世譜雜録(舊記雑録拾遺 家わけ二,鹿児島県歴史資料センター黎明館,1991122日)に従い五代としました)。法号の利翁名守益庵主が刻まれています。肥後合戦では穎娃左馬之頭久虎等と共に二番備の脇大将を務めるなど軍功を重ねましたが、天正十八年三月三日(159047日)、33歳で世を去りました。肝属家はその後給黎(喜入)に移されます。小松家に養子に入った帯刀清廉(肝付兼戈)の実家です。

三國名勝圖會国立国会図書館デジタルコレクションは棟札に天文九年(1540218~154125日)とある山王堂が東禪寺の鎮守として“近地の山にあり”としていますが、この“山王”は日枝神社前身の山王社を指すものではなく、高速道路建設で失われた遺構であろうとのことです。

下久徳の田ノ神さぁ 本日案内を頂いたスポットは 114日に作成した Google My Maps®の“加治木”に追加でプロットしています。

加治木ではなく蒲生なのでMapに加えてはいませんが、右の画像は巡検後に上の“蒲生の大楠”のpop-up表示画像を確保に向かった途中に立ち寄った下久徳(しもぎゅうとく)の田ノ神さぁ。舟形光背の中に浮き彫りにされ、彩色された痕跡を確認できます。説明版に拠れば明和五年十月十八日(17681126日)の遺構ながら、光背脇の紀年銘は安永九(庚子?)年四月九日(1780512日)。もしかすると浮き彫りにされているのではなく、光背部分が後に納められ嵌め込まれたのかもしれません。鍋倉火砕流堆積物とは明らかに岩相が異なることから加治木石のうちの黒石、桃木野石かと思われるものの、いろいろと謎の多い田ノ神さぁです。

この下久徳は黒川(2021)で、夭折した島津宗家子女の供養塔を祀るために阿多の黒石が切出されたとされる地区です。

<嘉永二年正月晦日(1849222日)>

一 今日、御夭亡様1 御石塔為御取調方、御作事方下目付 是枝助之進殿 差入有之段、当番所ヨリ申来り候ニ付、罷出張候処、郷士年寄代 本村市左衛門殿・此方 黒川傳右衛門殿・同助之丞、下久徳村正屋(庄屋)役所出會居候処 ・・・(以下略)

蒲生御仮屋文書 日記11号文書

<嘉永二年九月廿六日(18491110日)>

一 今日ヨリ篤入院様2 御石塔取調方とシテ御作事方御下目付 是枝助之進殿石切両人、下久徳村御差入有之 ・・・(以下略)

蒲生御仮屋文書 日記11号文書

<嘉永三年十二月四日(185115日)>

一 今日、盛光院様3 御石塔御取調方とシテ、御作事方下目付 高崎孫四郎殿・石切 山次宗之進、外ニ壱人差越有之筈ニ、昨日先状相届、下久徳村嶽友門之金太郎所江宿手当有之候 ・・・(以下略)

蒲生御仮屋文書 日記12号文書

蒲生御仮屋日帳,姶良市誌史料 六,姶良市誌史料集刊行委員会,2018320

1~3 御夭亡様は斉彬公次男寛之助君、篤入院様は四男篤之助君、盛光院様は三男盛之進君。


黒葛野の田ノ神さぁ 嘉永二年の採石は十月に終了し、同月十一日(18491125日)からは石材が船津村(城ヶ崎)まで運ばれて別府川支流の蒲生川で船積みされ、帖佐納屋町まで別府川を利用して運ばれたようです。ただ、肝心の石切場跡の位置は判然としません。

最後にもう一つ田ノ神さぁ。左は旧姶良町(てら)()黒葛(つづら)()の一体です。黒葛野にもかつて採石場があり、そこで切出された黒葛野石が住吉の新照寺に使用されたという談話が大木(2015)に紹介されています。地質調査総合センターの20万分の1地質図幅“鹿児島(1997)”では黒葛野周辺に加久藤/下門火砕流堆積物(Kt)が分布していますから小野石に近い石材かもしれませんが、大木(2015)は“(加久藤火砕流堆積物を含む)今回報告した火砕流の溶結凝灰岩のいずれにも当てはまらない”としています。田ノ神さぁにも手近な石材が使用されていても不思議ではないと思われるのですが、新照寺のものとは異なる黒石のようにも見えます。

姶良の石材は謎に満ち溢れています。 住吉の新照寺



2024 1 26

石敢當マップ ちょっと思いついたので、昨日、森田浩司“鹿児島県山川における・石敢當の実態実験(研究紀要 41,大阪教育大学附属高等学校池田校舎研究部,20081020日)”で調査されている石敢當・石散當(当)を確認に出かけてみました。森田(2008)にあるもののうち所在が確認できなかったものは3基(うち1基はおそらく移設)、記載のなかったものが3基(1基は移設されたと思われるものに対応)。新しい時代に祀られたものが多いのでこれまでさほど興味をもっていなかったのですが、折角ですから確保した全53基の画像をGoogle My Maps®にまとめています。地点番号は右の一筆書きルート上で辿った順番です。

“福元火砕岩類”のページの“山川石”の項で石敢當について触れている部分に加筆し、マップを埋め込みました。


2024 1 14

昨日、加治木で訪ねることができればと思っていたところのいくつかを駆け足で廻ってきました。地質的には大塚・西井上(1980の鍋倉火砕流堆積物を含む国分層(Kf)を貫く先姶良カルデラ火山岩類のうち大塚・西井上(1980)の湯湾岳安山岩を含む安山岩・デイサイト・火砕岩類(Aa)を観察できる地域です。今回は加治木石のうち黒石とされる桃木野石と白石とされる(ふた)瀬戸(せと)石を遺構として確認することのできる田ノ神さぁ巡りだったのですが、或程度の画像を確保することはできましたのでGoogle My Maps®にプロットしてみました。202211月の地学見学会での巡検地と薩南学派の項をまとめた際に訪ねた南浦文之墓所の位置情報も追加しています。

焼山の二瀬戸石石切場跡を初め“時間があれば装備を整えて”という場所も多く、田ノ神さぁの取りこぼしもありますので、これからも機会があればスポットを追加したいと考えています。

*大塚裕之・西井上剛資“鹿児島湾北部沿岸地域の第四系”,鹿児島大学理学部紀要(地学・生物学),19801230


2024 1 7

先日、飛鳥時代の“暗文(あんもん)土師器(はじき)”が()(じょう)(いち)尾長谷(おばせ)(ざこ)遺跡で発見されたとの報道がありました。畿内産土師器を模倣したものとされ、暗文は内面に施された放射状の装飾的文様を意味しています。従来は宮崎県西都市日向国府跡の寺崎遺跡と水運関連施設の宮ノ東遺跡が分布の南限とされていたようです。国衙・郡衙といった中央政府が設置した行政施設跡からの出土が多いといわれますからキツネにつままれたような気分で俄には信じられません。

ただ、おかげで久しぶりに松尾城址を訪ねてみようという気になりました(1985年の尾長谷迫遺跡発掘調査の際には松尾城の大空堀から外拵にかけてもトレンチが掘られています(県営畑地帯総合土地改良事業指宿地区に伴う埋蔵文化財確認調査報告書 尾長谷迫遺跡,鹿児島県指宿市教育委員会,19863月,全国遺跡報告総覧,奈良文化財研究所・島根大学附属図書館))。現在は松尾崎神社が祀られているのですが、出かけてみると鳥居も落ちていて、初詣にいらした方もいらっしゃらないのではと思われるほどに荒れ放題です。地べたを掘り返すことには熱心ですが、文化財の保存には興味を示さない自治体です。 松尾城址

幸い、尾長谷迫遺跡の発掘調査地の真下の露頭を見て4年以上前に気にしていた今和泉火砕流堆積物の取扱いをそのまま失念していたことに今更ながらに気付いたので、この機会にページを加えておきます。短編ですけど尾長谷迫遺跡の詳細な情報が発表されることがあれば情報を更新します。


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