大野岳火山

周辺の史跡:大野岳神社

廃仏毀釈

頴娃の大野岳扇状地


 

大野岳は池田断層の北側、南九州市にある標高465.9mの小型の火山体です。山頂周辺の山体部に橄欖石単斜輝石玄武岩溶岩Onv)を主体とする露頭を確認することができ、川辺禎久・阪口圭一“開聞岳地域の地質(国立研究開発法人産業技術総合研究所 地質調査総合センター,2005年,地域地質研究報告-5万分の1地質図幅 - 鹿児島(15)第100号)”で採用された試料の二酸化珪素(シリカ)とアルカリ成分の含有量は、こちらからpop-up表示される図に示す比率となっています。阿多カルデラ噴出物に覆われる鬼門平断層崖の玄武岩スコリアが大野岳火山由来であるとすれば中期指宿火山、地形的な特徴をみれば新期指宿火山と、大野岳が何れの時代の地質遺産であるかについては見解が分かれていますが、稲倉寛仁(2015[1]で紹介されている2011年の大野岳溶岩のK-Ar(カリウム・アルゴン法)年代測定結果に基づき、ここでは14~12万年前に形成された中期指宿火山としてインデックス・ページで分類しました。

山体自体に堆積した降下スコリアを確認することは難しいのですが、山麓に拡がる頴娃の扇状地(Onf)は大野岳火山由来の玄武岩礫層等の堆積物が表層地滑りを起こしたことによって形成された地形のようです。扇状地堆積物が大野岳溶岩、MATUMOTOの阿多カルデラ火砕流を覆い、清見テフラ以降の堆積物の下位にあることから、活動は阿多カルデラの活動以降、指宿火山開始までの長期に亘ったと推定されています。

大野岳溶岩露頭

 

周辺の史跡:大野岳神社

大野岳神社仁王像と狛犬 大野岳の頂上近くにあり、神社前の駐車場まで車による登山も可能です。揖宿郷の尾掛にあった社殿が、松の毛虫を嫌われるというご託宣により、松の無い大野岳に遷座されたという伝承があります。

三國名勝圖會(巻之二十四 十五,国立国会図書館デジタルコレクション)は、“薩摩國、頴娃郡、大野嶽之權現堂鎚鐘、永仁五年、丁酉、二月十一日、大檀那左衛門尉平朝臣”という銘の槌鐘があったとしており、1297年以前に建立された神仏習合の社殿であったと考えられます。寛政年間(1789~1801年)に焼失しますが、再興された際にも、地頭島津矢柄により、神鏡3面と共に、仏像3体(阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩)が寄進された(頴娃町郷土誌,19901220日)とのことですから、筋金入りの混淆ぶりです。

社殿は1982年に改築されましたが、遺構として石造りの鳥居、仁王像、狛犬が残されています。仁王像は、()(びら)(瀬平)の瀬道を拓いた石工と同一人物と思われる開聞入野の安兵衛による元禄年間(1688~1703年)のものと伝えられ、一体は、廃仏毀釈運動により大きく毀損しました。

神社から5分ほど階段を上ったところにある展望台からは、指宿火山群を一望におさめることができます。鍋島岳溶岩ドームの西側の画像は大野岳展望台からのもので、竹山越しに大隅半島を望みます。


 

余談:廃仏毀釈

落語に“将軍の賽”という演目があります。諸大名が江戸城の詰所で丁半に興じているところを将軍に見咎められ、井伊掃部頭が、賽子は一天四界、天地陰陽を形どった国の宝であるという弁明を展開する、下げにかけてのテンポの良い畳み掛けが聴き処のお噺です。

「うゥん、さようか。しからば問うが、この一つの目の彫りきざみは、こりゃどうじゃ」
「おそれながら、将軍家をかたどりまして、彫りきざみましたるものにございます」
「返して六つは」
「日本は六十余州、六尺をもって一間といたし、六十間をもって一町ととなえ、六六、三十六町をもって一里と称す」
「返して四つは」
「徳川家代々の四天王、酒井、榊原、井伊、本多」
「返して三つは」
「清水、田安、一橋のご三卿」
「五つはどうじゃ」
「ご老中にございます」
「二つはどうじゃ」
「紀州、尾張のご両家」


「だまれ。清水、田安、一橋これ三卿とはいいながら、これまだ部屋住みではないか。
なぜ水戸を入れん」
「水戸を入れますと、寺がつぶれます」

三遊亭小圓朝集,青蛙房
一九六九年九月五日

 

下げにある“寺”は、鉄火場の寺銭を預かる胴元を指す隠語にかけた地口ですが、薩摩藩の廃仏毀釈も水戸藩のものに勝るとも劣らぬ徹底的なものでした。これについては、旧薩摩藩藩士市來四郎(正右衛門)広貫[2]の談話が残されています。それに拠れば、慶應元(1865)年の春頃、家老桂右衛門久武経由で島津家29代忠義、及び久光に廃仏毀釈案が言上され、桂久武等は、即日、寺社取調べ方に任じられました(桂は日置島津家12代当主久風の五男で、次兄は赤山(ゆき)()久普(ひさひろ)です)。彼等による調査の後、島津家ゆかりの真言宗大乘院を手始めに、先ず鹿児島城下の118寺院、3~4年で藩内1,066の寺院全てを廃毀して、2,964人の僧侶全員が還俗したとのことです。

薩隅日明治九年ノ半頃マデ、寺院ト云フモノ一ツモナク、僧侶固ヨリ一人モ居リマセナンダ、

竹本竹次郎“市來四郎談話速記

忠義公史料 第一巻,鹿児島県史料,鹿児島県維新史料編さん所,1974

つまり、鹿児島の寺院と僧侶の歴史には8年程、本当に“寺がつぶれ”た時代があります。

“僧侶は、當人より願つて、還俗したいといふ者も多く、中には、不服の者もあつたであらうが、大勢には抗ずべからず、且生活に困らぬ様にしてやつたから、續々還俗して國亊に盡したいといふ、立派な書面を出したのもあつた[3]”そうですから必ずしも弾圧とばかり考えることもできませんし、水戸藩ほどに恨みをかうことにもならなかったようですが、薩摩藩の廃仏毀釈は、慶応四/明治元(1868)年の太政官布告(神仏判然令/神仏分離令)[4]以前に始まっていたことになります。

寺院に続き、4,470の神社のうち、御神体が神鏡であった現霧島市隼人町奈毛木(なげき)の森の蛭兒神社を除く4,469社で、御神体とされていた仏像、仏具の類が一掃されました。“石の佛像は打毀はして、川々の水除け抔に沈め・・・木佛像は、悉く燒き捨てた”ことが、鹿児島県に文化遺産が少ないことの一因となっているとも考えられます(202111月に霧島神宮本殿・幣殿・拝殿が指定を受けるまで、鹿児島県の国宝は照國神社蔵の國宗銘の太刀一振のみでした[5])。

 

“どうも水戸様てえ人はひどい人だ。つり鐘をみんな下ろしちまう”、と三代目小圓朝師演じる“将軍の賽”にある梵鐘接収も実施されました。

“安政五年の夏、齋彬公死去の少し以前に、朝廷よりその前に仰出された、梵鐘を以て大小砲鑄造云々の詔に對し、齋彬は、大小の寺院にある梵鐘は、報時鐘を除く外は悉く藩廳に引上げ、取収めて武器製造局に集め、未だ鑄潰さずして、公は死去された(市來広貫談)”

毀鐘鋳炮(砲)の勅諚が幕府によって公示されたのは安政二(1855)年[6]。島津家28代斉彬公は安政五(1858)年に没していますから廃仏毀釈とはまた別のお話で、公の梵鐘接収には全く別の目的があったのですが、これについては“薩英戦争と薩摩の臺場”のページの“<余談>琉球通寶と薩摩天保”の項で。

 

最後に、指宿に残る廃仏毀釈の痕跡をいくつか。

廃仏毀釈の痕跡を残す指宿の遺構群 鳥居の前に仁王像が控える光景には違和感がありますが、例えば、小牧の八幡神社にある仁王像は、神社に隣接していた真言宗の慈雲山永泉寺の遺物で、永泉寺が廃寺となった後、明治八(1875)年1127日の信教の自由保障の口達以降の流れの中で、識別可能な残骸を修復する形で納められたようです。違和感には、神仏習合のみで片づけることのできない複雑な背景もあります。

また、十二町の金毘羅神社は明治時代に建てられた新しい神社です。かつては薩藩名勝志にもある安泰山源忠寺5つの末院の一つ洞雲庵のあったところで、画像の石造物は洞雲庵由来のものと考えられています。画像右の吽形像の向かいに、失われた頭部を宝塔の一部で補ったとみられるてるてる坊主のような阿形像の名残があり、その前の石柱は、摩利支天(東)、阿弥陀如来(西)、阿閃如来(南)、勢至菩薩(北)を表す梵字を四方に刻んだ市指定文化財です。洞雲庵の遺構は、画像をエリア・クリックして表示される拡大画像のうち十二町金毘羅神社のページからのリンクでpop-up表示されます。

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[1] 稲倉寛仁“南九州、池田カルデラの噴火史とマグマ供給系(博士論文)”,鹿児島大学,2015515日(第3章 大野岳火山の活動時期と阿多カルデラ)。新規指宿火山群説を採るものには宇井忠英“鹿児島県指宿(いぶすき)地方の地質(地質学雑誌 第73巻 第10号,196710月)”等があります。
[2] 宇宿彦右衛門と共に、鹿児島市仙巌園の尚古集成館にある島津家28代斉彬(順聖公)肖像写真の撮影者としても知られ、斉彬の命を受け、琉球でフランスとの戦艦購入交渉にも当たった側近でした。著書に“島津齊彬言行録(岩波書店,1944年,国立国会図書館デジタルコレクション”があります。斉彬公遺影の撮影は死去の前年となる安政四年九月十六~十七日(1857112~3日)に行われた日本人の手による最初のものですが、当初誤った虚説が流布されたため、“写真の日”は61日です。
[3] 羽根田文明“維新前後佛教遭難史論”,國光社,1925310日,国立国会図書館デジタルコレクション;竹本竹次郎“市來四郎談話速記”,忠義公史料 第一巻,鹿児島県史料,鹿児島県維新史料編さん所,1974
[4] 神号々仏語ヲ用ヒ或ハ仏像ヲ神体ト為シ鰐口梵鐘等装置セシ神社改正処分・三条,慶應四年三月廿八日(1868420日,国立公文書館デジタルアーカイブ
[5] 鹿児島県歴史資料センター黎明館に委託保管されており、通常は毎年夏・冬の 2 度、期間限定で展示されます。毎回、刀身をあしらった素晴らしいポスターが作成されているので転載についてのお伺いを立てたところ、照國神社に帰属する宝物であるという理由で黎明館様からのご許諾は頂けませんでした。ただ、その際のリーフレットにある説明文については差支えないということでしたので、以下はその一部となります。

法量:刃長=81.4cm 反り=2.7cm 元幅=3.3cm 先幅=2.0cm

形状:(しのぎ)造り,庵棟,(ちゅう)(きっさき),身幅広く腰反りがつく。

鍛え:板目幅よくつみ,()(にえ)つき,乱れ映り立つ。

刃文:(ちょう)()に小丁子,(かわず)()丁子が交じり,小足・葉入り,表の物打あたりに飛焼が見られる。なお,(はき)(おもて)の中程には長く白染ごころがある。

帽子:乱れこんで先は少し尖りごころにかえる。

  茎 :先は一文字に切り,(やすり)()勝手下り,目釘孔二つ。銘は棟寄りに「国宗」と(ほそ)(たがね)で切る。

(鹿児島県歴史資料センター黎明館資料)

埋込んでいるのは照国神社様のX®アカウントのご投稿です。拝見した20218月末の時点でリンクの可否をお伺いしたのですが正式なご回答を確認することができず、リツイート可を前提とするSNSの記事を拡散することに法的な問題はないのではと考え、こちらに転載させて頂きました。クレームが入り次第、削除致します。

[6] 勅諚は安政元年十二月廿三日付で、新暦では185529日となります(太政官符五畿内七道諸國司 應以諸國寺院之梵鐘鋳造大炮小銃事,国立公文書館デジタルアーカイブ)。幕府による公示は1855419日(安政二年三月三日)。水戸烈公9代斉昭が藩内諸寺の梵鐘を大砲に鋳換えたのは、これより10年以上早い天保十三(1842)年のことでした。勅諚自体は安政年間の震災の多発によって実質的に棚上げされ、最終的には無期限延期となるのですが、そのきっかけとなった安政六(1859)年の間部下総守詮勝から九条関白尚忠(ひさただ)に宛てられた上奏書の内容より推して、毀鐘鋳砲は、斉昭の建白により発布に至ったもののようです。その斉昭と“将軍の賽”に登場する井伊掃部頭直弼の確執は広く知られるところです。直弼は、勅諚に関しても反斉昭派で、“・・・宣旨下り候趣、傳承仕驚き入、虚説に之あるべきと存候”云々とある松平和泉守乗全(のりやす)宛の書簡が残されているそうです(羽根田文明“維新前後佛教遭難史論”,国立国会図書館デジタルコレクション)。薩摩で毀鐘鋳砲に備えた島津斉彬も、精兵5,000を率いての上洛という示威行動を企てるほどに井伊直弼の政策姿勢を嫌悪していましたから、詰所での賭博行為には加わっていなかったと思います。

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