揖宿煙草の濱田金右衛門 |
調所広郷の下で天保の薩摩藩財政改革を推進した海老原清煕は、指宿を訪れた際に鯨骨・牛馬骨肥を扱う田良の黑岩家に宿泊。当主藤右衛門の所見に触れて、農業生産性の向上を図るべく調所に肥料の骨粕方の設置を進言します。海老原案は容れられ、黑岩藤右衛門はその運営を任されました。
関東ヨリ東海道・志州・紀州・五畿内・四国・中国・三丹・因伯・北海・壱岐・対馬・九州五島迄モ、皆残ラス黒岩カ一手ヲ以テ輸入ノ道ヲ開キ盛ンニシテ、藩内各所ニ支店ヲ設ケ、培養ヲ恣ニ用ヒタルヨリ菜種子ノ一種ニテモ出産弐拾万石ニ及ヒ、其他ノ産モ夫ニ類シ、大ニ農民ノ利トナリシコトナリ、
海老原清煕履歴概略“〇一四 黒岩ガ一夕ノ話ヨリ大ニ国益開キシ事等”
薩摩藩天保改革関係資料 一,鹿児島県史料集 第39集,鹿児島県立図書館,1999年
嘉永四年に斉彬公が砲台建設候補地を巡見された際の指宿での日常を記録している“山田爲正御供日記”には、霜月廿一日に黑岩政右衛門より到来物があった旨、廿ニ日の項には山川の佐々木善右衛門、河野覺兵衛、湊の濱崎太平次等と共に黑岩政右衛門と斉彬の間で進物のやりとりがあった旨が記されています。1851年12月13・14日です。
“斉彬公史料 第三巻(鹿児島県史料,1982年)”に引用されている“黑岩堅藏家記抄”の注記に
黑岩ナル者ハ元来指宿郷摺ノ濱浦人ニテ、政右衛門ト呼ヒ、屈指ノ商人ナリ、琉球諸島往来ノ為メ、大小船数艘ヲ所有セリ、少シク才学アリテ尋常の商買ニアラス、国亊ニ力ヲ尽シ、私財ヲ耗シタル巨額、其功ヲ以テ城下士籍ニ召出サレ(調所笑左衛門カ執政中)、而シテ内外財政ノ下吏ニ仕ハレタリ、
とありますから、ここにある政右衛門(堅藏)と藤右衛門は同一人物かと思われます。
“黑岩堅藏家記抄”には、
御先代様二月田御光越中、所々御手ヲ被為付候(民政改良ノ部ニ詳記ス)、就中二俣山(二月田ヨリ西方ニ当リ、五十町余)御用水(池田ノ池水灌漑)、御茶屋内ヘ御取入、其末農家田水ニ被仰付候様、懇々私ヘ御内命被仰付相勤申候、右費用ハ私ヨリ仮払仕置候ハ丶、追テ御下ケ可被仰付旨被仰付置候ヘトモ、私金ヲ以相弁切申候、
但 全体用水乏敷場所柄、始テ水源尋出候節ハ別テ御満悦ニテ、御前ニモ山ノ絶頂ヘ御登リニ相成リ、中々恐縮至極之至奉在候、入費等ハ私ヨリ相弁切ル、
考証 黑岩賢藏家記抄(安政五年,斉彬公史料 第三巻,鹿児島県史料,1982年)
と記されています。安政五年は斉彬公の没年であり、内容より推して“御先代様”は斉彬公、“御茶屋”は島津家指宿別墅を指していますから、調所自裁後もその財力を頼られてはいたようです[1]。
まぁ、5.5Kmに亘って拓いた水路に石樋を通し、農業用の灌漑施設までを整備する規模の土木工事が自腹となるようであれば、天狗の祠も黑岩家の勘定で祀られたものではないかと・・・。祠下の謎の岩塊群も、その際に納められた建造物の遺構なのかもしれません。天狗の祠の近くに、“大天狗の碑”と呼ばれる石造物もあったそうです。
ただ、“山田爲政御供日記”に記録されている嘉永四(1851)年の巡見の際、斉彬公は霜月一日(11月23日)に山川入り。翌日から出立の廿四日(12月16日)まで指宿に滞在されていますが、この間に黑岩家の名前が見えるのは先の2日。一方、濱崎太平次は9 日に亘って表れますから、調所の時代が終わり斉彬の代になって島津家と黑岩家との縁は多少薄くなった可能性があるかとも思われます (山川の河野・佐々木家の御目見得は 3度です)。
1942(昭和17)年の海軍揖宿航空隊基地建設に伴う田良地区強制移転により、黑岩家の記録や家財は殆どが散逸してしまったそうですが、かつての黑岩家の門構えは十町弥次ヶ湯の個人のお宅に移築されて残っています。また、上吹越公民館敷地内の社に残される灯篭一対には“黒岩藤左衛門”の銘があります。“文久三年癸亥十一月(1863年12月11日~1864年1月8日)吉日”とありますから藤右衛門からは代が下り、島津家も29代忠義の時代です[2]。
藩政の終焉と共に、黑岩家は湊の濱崎家、山川の河野家同様、かつての威勢を失っていきます。
明治に入って藩制時代の政商が衰退していく一方で台頭してきたのは、指宿煙草の取扱いにより一代で財を成したといわれる濱田金右衛門です。
タバコは天正・慶長年間(1573~1615年)に渡来し、山城國花山[3]もしくは長崎東土山[4]で栽培が始まったとされることが一般的ですが、1543年には既に薩摩(種子島)に鉄砲と共に伝えられていたとする説もあるようです。
元来此物ハ赤道直下ナル亜墨利加州ノ淡巴卧斯ト云島ニ生シタル草ナルカ 西洋人コレヲ珍重シテ此ヲ世界中ニ弘メタルナリ 我日本ニ傳ハリシハ天文十二年ニ波爾杜尾尓国ノ人持来テ大隅国種児島ニ植タルヲ最初トス 草綿 辣 茄 鉄炮ナト渡リシモ是時ノ事ナリ
佐藤信淵“草木六部耕種法”巻之八(天保三(1832)年,国立国会図書館デジタルコレクション)
この書にはまた“煙草ノ性ハ炎熱ノ地ニ宜キヲ以テ 薩州国府ノ産ヲ第一トシ 肥前島原ヲ第二トス”とあります。“国府”は“国分”。“おはら節”にも唄われる鹿児島を代表する葉ですが、近世には“揖宿煙草”も知られる銘柄となっていました。“指宿ノ如キハ近年薩摩地方ノ評判別シテ良ク 山川其他ヲ合シテハ年々七拾萬斤ニモ登ルヘキ巨額産スレドモ少シモ他所ニ輸出スルコトナク悉ク地潰シノミニ賣捌キ常ニ引足ラザルガ如クナル勢アル品(青江秀“薩隅煙艸録”,鹿兒島縣藏版,1879年6月26日,国立国会図書館デジタルコレクション)”とありますから、価格形成メカニズムや流通プロセスで他の産地とは異なるマーケティングが指向されていたようで、全盛期の濱田家は相当に羽振りが良かったかと思われます。
“嗚呼、田良の里”の巻末に1981年頃の土地台帳に基く住居図が付されています(中村俊之氏提供)。強制移転前の町並みは既に失われていましたが、同書にある中村操氏の記憶に基く“旧家屋配置図”と照し合せれば、濱田家は上・中・下屋敷を構え、かつての黑岩藤兵衛邸も濱田家のものとなっていたようです。三代目金三の代で全てを失ったという“唐様で書く三代目”を地で行く興味深い商家ですが、残念なことにこちらも詳しい資料は残されていないようです。1898年の葉煙草専売制施行と日露戦争の戦費調達の一環としての専売制の強化(1904年)による影響もあったと考えられますから、金三さん一人に責任を負わせるのは酷にも思えますが、黑岩家御当主のお話では、あまり評判の良いお方でもなかったようです。
旧指宿郷にはいくつかの煙草神社の祠が祀られており、串木野の冠嶽の大岩戸神社の御神体を勧進したと伝えられています[5]。何れも新しく、中では古いとされている十二町山王神社に合祀されている祠でも大正11(1922)年3月、品評会での10度目の優賞旗獲得を記念して祀られた東方玉利の祠は昭和13(1938)年5月のものです[6]。
煙艸 諸村に産す、拾貳町村の産、最佳なり、砂地なる故なりとす、當邑煙艸の他産に勝れるは、終夜吸ひ吹と云ども、舌の痛むことなく、又煙氣多く、又火の燃へよし、故に世人の言に、揖宿煙艸は濕指にて把りても、火つきよしといへることあり、又氣味も頗る佳にして、且價も貴からざる故に、中産の家、最是を好めり、凡そ本藩の煙艸の所産は、國分出水等を以最上とするに、當邑の人は、當邑の産に誇て國分に亞といへり、
三國名勝圖會 巻之二十一 (国立国会図書館デジタルコレクション)
残念ながら、揖宿葉[7]の生産は、1973年を最後に途絶えてしまいました。全てが米葉となった指宿市の煙草が農業生産額に占める比率は2023年3月年度で0.9%(令和5年度統計いぶすき,総務部デジタル戦略課,2023年7月)。“最佳”とされた十二町にはかつて薩摩煙草株式會社の製造所(明治三十九年鹿児島縣統計書 第二編(勸業))もありましたが(こちらは代表銘柄“軍艦煙草”の雑誌広告です)、上の山王神社に祀られているものの他に残るもう1基の煙草神の石塔は、千手観音堂のコンクリート壁とブロック塀に挟まれた悲惨な状態で忘れ去られています。これを含む上の2 ヵ所以外の煙草神社遺構の画像は、こちらのページにまとめました。
黑岩家、濱田家共に未だ調査が行届いておらず、新しい情報が得られるようでしたら内容を更新していきます。両家代々の系図や各当主の事績についてお詳しい方がいらっしゃるようでしたら、情報をお寄せいただければ幸いです。
尚、“嗚呼、田良の里(記念誌発行委員会,1987年10月30日)”は“指宿の三富豪”の項で、濱崎太平次と共に田良浦の黑岩藤右衛門、浜田近右衛門を挙げ、中川路九萬一編“薩摩半島史跡名勝寫真帖”に拠るものとして、“藤右衛門さんの代であったか、磯、島津邸の本宅一切を献上”したという逸話を紹介しています。磯の仙巌園は島津家19代光久によって萬治元(1658)年に築かれており、改築された可能性はあるものの、“薩摩半島史跡名勝寫真帖(鹿兒島縣教育會印刷部,1942年6月7日,指宿図書館蔵)”に上の記載は見当たりませんので信憑性は量り兼ねます。ただ御当主に拠れば、この話は黑岩家にも伝わっているようです。
“播州ノ服部之産ヲ第一ト爲シ 泉河ノ新田之ニ次ク”とし、薩州國分も、上州高崎、和州吉野、甲州小松萩原、信州玄古、丹波大野と共に“其名ヲ得ル者”に挙げられています。吉野、丹波は、貝原益軒の“大和本草”でも、花山に続いて栽培が始まったとされている地域です。
煙草は島津斉彬公にとってもご自慢の産品であったようで安政五年三月十八日(1858年5月1日)、山川に招いた咸臨丸を訪れた際にも長崎海軍伝習所のオランダ士官に菓子と共に下賜されています。ただ贈られた側の評価はさほど芳しいものではなかったようです(Willem Johan Cornelis ridder Huijssen van Kattendijke/水田信利訳“長崎海軍伝習所の日々 - 日本滞在日記抄”,東洋文庫 26,平凡社,1964年<“Gedurende Zijn Verblijf in Japan in 1857, 1857 En 1859”, Digitalisierte Sammlungen, Staatsbibliothek zu Berlin, 1860>)。
また“薩隅煙艸録”には、山川に自生していた“柳葉ニシテ茎衣ナク芳香秀逸ナル”山煙草が図版と共に紹介されています。“芳香秀逸”とある以上、葉の形状が煙草に似ていることだけが名称の由来となっているキク科のヤマタバコ(Ligularia angusta)やイワタバコ科のイワタバコ(Conandron ramondioides)ではないようですし、挿絵にある形状をみると“蘇我煙草”に近い種かとも思われます。ナス科のヤマタバコが存在したのでしょうか。
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