濱崎家5代太左衛門による建立とされている稲荷神社(湊4-17-1)の境内に、大久保利通三男の利武撰(昭和7(1932)年6月15日)とある8代太平次の功績を称える碑が残されています。
湊の濱崎家は、田良浜の黒岩家、山川の河野家・佐々木家と共に、調所広郷が主導した財政再建の影の柱となった密貿易に協力した政商で、碑文には、当時の当主であった8代太平次は、広東、ルソンとも交易を行ったといわれている、と記されています(右の画像をクリックすれば碑文が表示されます)。
又密カニ外商與貿易ス 此時ニ當リテ我藩ノ財用ハ困乏 藩老調所廣郷鋭意回復ヲ圖ル
君承享シテ運輸貿易于從事シ 北ハ蝦夷ヲ窮メ南ハ琉球ニ抵ル
或ハ云フ廣東及呂宋ニ遠航スト
功ヲ以テ士籍ニ列ス
調所が失脚し、斉彬が島津家当主となって以降[1]の御用は、琉球貿易が主体となったようですが、
齊彬公封ヲ襲ヒ宇内ノ大勢ヲ深察スルニ先ズ琉球ニ於テ港ヲ開カント欲ス
君 夙ニ公之知遇ヲ蒙リ 措ヒ盡ス所多シ
と、調所とは様々な確執のあった斉彬との関係も良好で、嘉永四年十一月朔日( 1851年11月23日)の山川入りから廿四日(12月15日)の指宿出立までの斉彬の行動が記録されている“山田爲正日記(斉彬公史料4,鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1983)”にも太平次の名前は頻繁に現れます。
この時には既に二月田に指宿別墅が設けられていますが、現在 ㈱NTTフィールドテクノの事業所がある場所に建てられていた濱崎邸にも5代太左衛門の時代から10畳敷の島津氏御座ノ間がありました[2]。
8代太平次は文久三年六月十五日(1863年7月30日)に大阪で客死します。その16日後には薩英戦争が勃発。戦後の英国側の情報を収集するために七月廿六日(9月8日)に長崎を訪れた家士がヤマキ長崎店(濱崎家の船印は“山形に木(木𠆢)”でした)に14万両の汽船を手配させて翌月一日には横浜に向かう等、太平次の死後も藩の濱崎家依存は続きました[3]。時代が下り10代の時代になった明治九(1876)年にも多良の黒岩藤兵衛・藤左衛門と並んで濱崎太平次の名が指宿戸長役場宛軍役金返却名簿に見えますから、しがらみはいろいろと後を引いていたようです(濱崎太平次傳,濱崎太平次顯彰會,1935年10月28日,国立国会図書館デジタルコレクション)。
8代太平次の墓碑は、旧専売公社跡地にある公園の奥に残されています。
“紀功碑”を含む“照國公足跡マップ@指宿”の作成を試みているのですが、いろいろと不確実で難航している部分がありますので、ご意見をお寄せ頂ければ幸いです。
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