入戸火砕流堆積物

“入戸”は国分市にある地名で、山本温彦・大木公彦・早坂祥三“鹿児島県入戸火砕流および吉野火砕流について(鹿児島大学理学部紀要(地学・生物学),No.1119781230日)”も英文タイトルが“On the Ito and the Yoshino Pyroclastic Flows in Kagoshima Prefecture”とされている等、“イト”と発音されるのが地質関連の文献では一般的です。沢村孝之助が“5萬分の1地質図幅説明書 国分(鹿児島-第82号)(地質調査所,1956)”で命名した“入戸(いと)軽石流”に振られているルビが呼称の由来のようですが、現在、公式には“イリト”だそうです。霧島市観光協会のサイトのエリア紹介ページのうち“入戸(いと)火砕流模式地”にバス停の標識の写真があります・・・“(いり)()”です。薩摩言葉には撥音便化が多いので、現地では“いっと”と発音されているのかもしれません[1]国分重富入戸周辺の地質図はこちらItが非溶結部、wが溶結した入戸/妻屋火砕流堆積物です。


閑話休題。

 

南大隅町の貫 入戸火砕流堆積物は溶結本質岩塊層と非溶結の火山灰層、及び異質岩塊より成る姶良カルデラ由来の地質ですが[2]、南薩に分布するものは殆どが火山灰層(It)。錦江湾に面した台地地形を形成する代表的な“シラス[3]”です。鹿児島市に近い瀬崎、岩本、小牧の一部を除けば、指宿はその後の池田火山、開聞岳火山の活動による噴出物に覆われることから殆ど露頭がありませんが、鹿児島市からの国道226号線沿いに、喜入前之浜にかけて延々と観察ポイントが続きますし、そのまま指宿を過ぎて頴娃に入れば、馬渡川河口から加治佐川河口にかけての南薩台地も阿多火砕流噴出物を非溶結の入戸火砕流噴出物が覆う“シラス台地”で、20万分の一地質図幅でご確認頂けます。頴娃地方では正月の松飾に雪に見立てたシラスをあしらうという風習もあったようですが、土壌改良の結果、頴娃でも入戸火砕流噴出物の露頭を確認することは困難になってきています。また、入戸火砕流堆積物の露頭が広範に拡がる大隅半島側では、溶結・非溶結の堆積物を掘削することで設けられた(ぬき)と呼ばれる水路坑も残されていますが、これも南薩では一般的な構造物ではありません[4]。右上の画像は南大隅町の雄川沿いにある現役の貫です[5]

これまでのところ南薩台地(頴娃)では満足できるだけの画像を確保できていないことから、取り敢えずは()(じょう)(いち)の露頭で代用しました。非溶結の火砕流堆積物を利用するのは薩摩の山城では一般的な形態で、画像の露頭の上部も松尾城(指宿城)の縄張りの一部(陣ノ尾)でした。下の画像をクリックして頂ければ、地質調査総合センターの地質図の該当部分をpop-up表示します。いずれ満足できる露頭を頴娃で確認できれば、それに差替えたいと思っています。

外城市の入戸火砕流堆積物露頭

池田 et al.1995[6]は、宮崎県高崎町迫間で採集された試料の炭素14法による測定結果に基き、地質年代を24,380±1,180年前としていますが、同地の試料からは、より新しい年代値も得られています[7]。宝田 et al.2022[8]に拠れば、入戸火砕流の推定噴出量は500〜600 km3(マグマ換算200~250DREkm3)。このうち180~200km375~80DREkm3)がカルデラ内、300~400km3130~170DREkm3)がカルデラ外に堆積したと推定されています。また火砕流によって発生した姶良Tn火山灰の体積300km3120DREkm3)を加えた総噴出量は800~900km3320~360km3)と、従来の推計値の約1.5倍。大隅降下軽石、垂水・妻屋火砕流といった入戸火砕流に先行した一連の噴火活動を含めた姶良入戸噴火全体の火山爆発指数(VEI:Volcanic Explosivity Index)は7~8と推定されています。この文献には東京都八丈町、群馬県高崎市の露頭の画像も紹介されています。

 

開聞岳由来の指宿の“コラ”と共に、頴娃の“シラス”は農業従事者にとって生産性向上の阻害要因となり、それぞれがその改善に取組んできました。南九州市と指宿市の農業生産額の内訳は、それぞれの地質遺産の特性と、これに対応してきた先人の努力を反映したものであり、頴娃に於ける入戸火砕流堆積物の露頭の減少の背景でもあります。 南九州市と指宿市の農産物生産額内訳
統計南九州統計いぶすき

余談ですが、かつての指宿煙草の隆盛は偲ぶべくもありません。

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[1] 似たような話は指宿にもあります。鬼界カルデラ由来の幸屋テフラの“幸屋”は、地質関連の文献では“コウヤ”ですが、当地では“コヤ”です

まあ、“雪丸(ゆんまい/ゆきまる)”、“狩集(からすまい/かりあつまり)”のバス停とかもありますから、“大概大概(てげてげ)”で。

[2] 荒牧重雄“鹿児島県国分地域の地質と火砕流堆積物”,地質学雑誌 Vol.75 No.8,日本地質学会,1969
[3] “シラス”は非溶結の火砕流堆積物のうち淡色を呈するものを漠然と指す俗語で地質学的に分類された非溶結の入戸火砕流堆積物を意味するものではありません。実際、一般的な感覚では入戸火砕流堆積物とその下位にある妻屋火砕流堆積物は同じ“シラス”で、岩戸火砕流、大隅降下軽石といったところを神経質に認識する方もいらっしゃいません。
      大木公彦“シラスを知り・活かす”,Nature of Kagoshima Vol.37,鹿児島県自然愛護協会,2011516
      太田良平・竹崎徳男“シラスに関する諸問題”,地学雑誌751号,1966225
[4] とはいえ、“貫”は隧道を意味する普通名詞で、指宿にも水路として利用された“貫”がありました。後背地の湧水に悩まされていた山川利永に安永五(1776)年に設けられた、池田湖への排水を目的とするもので、完工に伴って祀られた“(ぬっ)水神(どん)”の祠が(ぬっ)(くっ)に残されているそうです。山川利永は池底溶岩上野溶岩に覆われる地域ですから、かなりの難工事ではなかったかと思われますが、残念ながら流砂によって機能しなくなり、その後、築堤(ちっき)建設による迂回策が採られたために、復元されることはありませんでした。
[5] 霧島市を流れる天降(あもり)(がわ)流域は、溶結した入戸火砕流噴出物の河床の甌穴群で知られた地域ですが、ここにも断層の活動によって形成された洞窟に“貫”の一種と思われる強溶結・弱溶結・非溶結の入戸火砕流堆積物を一度に観察できる遺構があります。天降川は断層に沿って蛇行を繰り返しており、 天降川の洞窟 天降川の洞窟の鑿跡 おそらくは農業用の用水路ではなく、増水時の水勢を緩和して氾濫を防ぐために自然の地形を利用した排水路の可能性が高いのではないかと考えられますが、西郷隆盛が穿ったとする伝承もあるそうです。 天降川の洞窟の内部

この洞窟や甌穴の画像は、大木公彦・湯浅秀隆“天降川中流・上流域の地形・地質に関する一考察(鹿児島大学理学部紀要 vol.4520121230日)”にも掲載されています。上の画像は大木公彦先生にご案内頂いた鹿児島県地学会主催の天降川流域巡検の際に撮影したものです。

[6] 入戸火砕流堆積物の推定年代値表 池田晃子・奥野充・中村俊夫・筒井正明・小林哲夫“南九州,姶良カルデラ起源の大隅降下軽石と入戸火砕流中の炭化樹木の加速器質量分析法による14C年代”,第四紀研究 Vol.34 No.5,日本第四紀学会,1995。実際には、9種の試料について表のような測定結果が得られています。
[7] 22,540±590年前(井村隆介・古賀政行“霧島火山および入戸火砕流の14C年代”,火山 Vol. 37 No.2,日本火山学会,1992)。

また、荒牧(1965)には、薩摩川内市樋脇町市比野(旧薩摩郡樋脇町市比野)の試料の14C年代として、16,350±350年前という、極端に新しい値が示されています(荒牧重雄“姶良カルデラ入戸火砕流の14C年代:日本の第四紀層の14C年代 ⅩⅩⅡ”,地球科学 Vol.1965 No.80,地学団体研究会,1965)。

[8] 室田晋治・西原歩・星住英夫・山崎雅・金田泰明・下司信夫“姶良カルデラ入戸火砕流堆積物分布図 説明書”,産業技術総合研究所 地質調査総合センター,2022125日。新シリーズ“大規模火砕流分布図”第一号の解説書で、311日には地質図Naviに入戸火砕流堆積物分布・層厚図も追加されましたので、こちらのページで参照できる仕様としました。図中の数字の単位はmです。

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