余談①:薩摩隼人 |
余談②:開聞岳の瑞雲 |
先是。大宰府言上。管肥前國。六月自リ澍雨降ラ不。七月十一日、國司幣ヲ諸神ニ奉ル。・・・・・薩摩國言。同月十二日夜。晦冥シ。衆星見ヱ不。砂石雨ノ如シ。之故實ニ檢アリ。頴娃郡正四位下開聞明神。怒ヲ發スル之時。此ノ如キ亊有リ。國宰潔斎シ幣ヲ奉ル。雨砂乃チ止ム。八月十一日震聲雷ノ如シ。燒炎甚ダ熾ンニシテ。雨砂地ニ満ツ。昼而猶夜ガゴトシ。十二日辰自リ子ニ至リ。雷電シ砂降未ダ止マズ。砂石地ニ積ム。或處一尺已下。或處五六寸已上。田野埋瘞シ。人民騒動ス。
日本三代實録 卷四十八仁和元年 起仁和元年七月盡十二月
開聞岳貞観の噴火は日時が曖昧ですが、仁和の噴火は旧暦七月十二日(新暦8月29日)、八月十一日(同9月27日)と記録されています。テフラ(12b)噴出量は2億9,300万m3(マグマ換算1億2,900万DREm3)。噴出テフラ量(溶岩は含まれません)の規模に基づく8段階評価の火山爆発指数(VEI:Volcanic Explosivity Index)は、貞觀の噴火と同じく4(Large)で、桜島の大正大噴火(1914年)と同水準でした。溶岩噴出量は直前に発生した田ノ崎溶岩流と併せ700万m3と推定されています。
885年噴出物は、それまでの火口を埋積した、鉢窪(貞觀の噴火以前の火口跡)から上の山体を構成するスコリア(岩砕)丘、火砕流堆積物(885s, 885p)とこれを覆う溶岩ドーム、溶岩流(885d, 885l)。開聞岳の山頂にかけてのたおやかな曲線は、仁和の噴火によって形成されたものです。
川辺禎久・阪口圭一“開聞岳地域の地質(国立研究開発法人産業技術総合研究所 地質調査総合センター,2005年,地域地質研究報告-5万分の1地質図幅 - 鹿児島(15)第100号) ”で採用された溶岩ドームの試料の二酸化珪素(シリカ)とアルカリ成分の含有量は、こちらからpop-up表示される図に示す比率となっています。
溶岩ドーム西側下にある小岳も、この時に発生した溶岩流の一部ですが、伝承では、開聞岳と海を隔てた硫黄島との諍いの際に硫黄島が投げつけた藁打槌が当たった瘤だそうです。開聞岳も黙ってはいませんでした。火縄を投げたために硫黄島に火がつき、未だに煙が上がっています。
死せる孔明が生ける仲達を走らせてから約200年後の允恭天皇一六(西暦427)年、履中天皇の弟、墨江中王(日本書紀では住吉仲皇子)は天皇殺害を企て、難波の宮を攻めて火を放ちます。側近の機転で難を逃れた天皇は、別の弟、水齒別命(瑞齒別皇子。後の反正天皇)に墨江中王殺害を命じ、水齒別命は、墨江中王の側に仕える曾婆訶理を、自分が天皇となった暁には大臣に取り立てるという条件で寝返らせました。曾婆訶理は暗殺に成功するものの、そそのかされれば主人を簡単に裏切るという心根を疑われ、大臣就任式を装った席で大杯での酒を勧められて、視界が遮られたところで頸を刎ねられます(古事記,国立国会図書館デジタルコレクション)。仁徳天皇崩御の399年の事件とする日本書紀では曾婆訶理ではなく刺領巾ですが、古事記同様、隼人とされています[1]。
ここまで劇的な登場は珍しいとはいえ、隼人の名は古事記、六国史の様々なところに表れます。ただ、部族を示すか官職を示すかについて諸説あるものもあり、明らかに部族を指す場合にも、何れの隼人かが不明なものが含まれています[2]。
さて、
壬子。大宰府奏言。隼人反シ大隅國守陽候史麻呂ヲ殺ス。
續日本紀 巻八 養老四年二月二十九日(720年4月15日,国立国会図書館デジタルコレクション)
“斬首獲虜合テ千四百餘人(續日本紀 巻八 養老五年七月七日(721年8月8日))”という結果に終わる隼人の乱の発端です。薩摩半島先端での状況がどのようなものであったかはわかりませんが、その20年前には当時の頴娃氏、肝屬氏らしき一族が女酋と共に不穏な動きをみせ、その2年後に軍事的圧力をかけられるまでは素直に中央に従ってはいなかったのではないかと思われる節があります。ただ、薩摩隼人が反乱に積極的に加担したとも考えにくいようです。
薩摩/阿多隼人を特定できる主なエベントのうち、隼人の乱前後の時期のものをまとめてみたのが以下の年表です。
682年8月14日(天武天皇十一年秋七月甲午)
朝貢。天覧相撲で大隅隼人に敗れる。
隼人多ク來リ方物ヲ貢ル、是日、大隅ノ隼人與阿多ノ隼人朝廷ニ於テ相撲トル、大隅ノ隼人之ニ勝チヌ、
日本書紀 巻廿九
687年7月10日(持統天皇元年五月乙酉)
先帝(天武天皇)の殯に大隅隼人一党と共に列席。
皇太子公卿ト百寮人等ヲ率ヒ、殯宮候ニ適而慟哭焉、是ニ於テ、隼人ノ大隅ト阿多ノ魁帥、各己ノ衆ヲ領テ互ニ進テ誄焉、
687年8月25日(持統天皇元年七月辛未)
大隅隼人を含む337名に褒賞。
隼人ノ大隅ト阿多ノ魁帥等三百卅七人ニ賞賜アリ、各差有リ、
692年7月7日(持統天皇六年閏五月己酉)
仏教布教開始。
筑紫大宰ノ率河内ノ王等ニ詔テ曰ク、宜ク沙門ヲ遣テ大隅阿多ニ於テ佛ノ教ヲ傳フ可シ、
日本書紀 巻卅
700年6月27日(文武天皇四年六月庚辰)
女酋、及び当時の頴娃氏[3]、肝屬氏と思われる一族が覓国使カツアゲの廉で処罰される。
薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美。又肝衝難波。肥人等ヲ從ヘ兵ヲ持シ覓國司刑部眞木等ヲ剽劫ス。是ニ於テ竺志惣領ニ勑シ。犯ニ准シ决罸セシム。
續日本紀 巻一
702年9月1日(大寶二年八月丙申)
多褹隼人(と共に*)中央に抗うも軍事圧力に屈し、戸籍作成と役人の派遣を受け入れる。
薩摩(ノ)多褹。化ヲ隔テ命ニ逆フ。是ニ於テ兵ヲ發シ征討ス。遂ニ戸ヲ挍リ焉吏ヲ置ク。
*原典では“薩摩”と“多褹”の間に“ノ”が振られていますが、同年十月丁酉の条に“是ヨリ先。薩摩隼人ヲ征スル時。”とあり、多褹隼人の単独蜂起ではなかったのではないでしょうか。
702年11月1日(大寶二年十月丁酉)
国内要害への砦設置と辺境防衛軍配置が認可される。
是ヨリ先。薩摩隼人ヲ征スル時。大宰所部ノ神九處ニ禱祈ス。實ニ神威ニ賴テ遂ニ荒賊ヲ平ク。爰ニ幣帛ヲ奉テ以テ其ノ禱ニ賽ス焉。』唱更國司等 今薩摩國也 言ス。國内要害之地ニ於テ。柵ヲ建テ戍ヲ置テ之ヲ守ラント。焉許ス。
續日本紀 巻ニ
716年6月14日(靈龜二年五月辛卯)
情状酌量の上、大隅と共に隼人の調を許される。
大宰府言。・・・(又)薩摩大隅ニ國貢進ノ人。已ニ八歳ヲ經。道路遥ニ隔テ、去來便ナラ不。或ハ父母老疾シ。或ハ妻子單貧ナリ。請フ六年ヲ限リ相替ヘンコトヲ。(並ニ)之ヲ許ス。
續日本紀 巻七
720年4月15日(養老四年二月二十九日)~721年8月8日(養老五年七月七日)
隼人の乱
723年5月20日(養老七年四月壬寅)
隼人の乱対応の兵役による疲弊と不作に鑑み、課役を3年間免除される。
大宰府言。日向大隅薩摩三國ノ士卒。隼賊ヲ征討シ頻ニ軍役ニ遭フ。兼テ年穀登ラ不。交飢寒ニ迫レリ。謹テ故々々ノ事ヲ案スルニ兵役ヨリ以後。時ニ飢疫スル有。望ラクハ天恩ヲ降テ復三年ヲ給ヘト。之ヲ許ス。
723年6月28日~7月17日(養老七年五月辛巳~六月庚子)
大隅隼人等と併せ624人で朝貢。指揮者34名に叙位褒賞。
辛巳。大隅薩摩ニ國ノ隼人等六百二十四人朝貢。
甲申。隼人ニ於テ饗ヲ賜ヒ。各其風俗ノ歌舞ヲ奏ス。酋師三十四人。位ヲ叙シ禄ヲ賜フ。各差有。
六月庚子。隼人歸郷。
續日本紀 巻九
730年4月2日(天平二年三月辛卯)
班田収授制導入見送り。
大宰府言。大隅薩摩兩國ノ百姓。建國以來。未ダ曾テ田ヲ班ズ。其有スル所ノ田ハ悉ク是墾田。相承テ佃ヲ為ス。改動ヲ願ハ不。若シ班授ニ從ハ丶喧訴多カラムヲ恐ル。是ニ於テ舊ニ随テ動サ不。各自ラ佃タラ令焉、
續日本紀 巻十
隼人の乱は、きっかけとなる事件が大隅国守殺害でしたし、723年5月20日の記載をみると大隅隼人、日向隼人にも朝廷方として乱の鎮圧に当った勢力があるくらいですから、一部の氏族の反乱といった程度の局地的なものであった可能性は高く、702 年の時点で既に造籍と役人の派遣を受け入れ、辺境防衛軍に威圧されていた薩摩隼人が、これに協力的であったとは考えにくいのではないでしょうか。
古事記と日本書紀で異なるとはいえ、隼人の祖は神武天皇の大叔父のうちのいずれかです。懐柔策としての捏造の疑いは残るものの、隼人は皇族につながる血統をもつことになりますが、中央の見方には微妙なものがあります。
續日本紀の和銅七(新暦714)年[4]の条で“民荒ム。野心未ダ憲法ヲ習ハズ”とされているのは大隅隼人ですが、薩摩隼人の扱いも変わったものではありません。下って仁壽三(853)年、やつれて面変わりするほどに自らを犠牲にした親孝行が都にも聞こえ、官位を授けられた上に生涯に亘って税を免除されるという名誉に与った薩摩の孝女挹前福依賣について、日本文徳天皇實録には、“野族ト云雖”という甚だしく上から目線の記載があります[5]。肥前國風土記に、松浦郡値嘉島(近島)の住民を形容して“容貌隼人ニ似タリ(国立国会図書館デジタルコレクション)”とあるくらいですから、判別の基準となるプロトタイプとしてのイメージが定着するほどの特徴を備えてはいたのでしょう[6]。
薩摩、大隅に班田収授制が導入されたのは、800年であったと思われます[7]。翌年には隼人の調、805年には歌舞の奏上も廃止されました[8]。開聞岳の二度に亘る大噴火は、横瀬溶岩を噴出した火山活動から約350年、植生も回復し落ち着きを取り戻していた中で、徐々に体制に組み込まれていくことに甘んじていた半島南部の薩摩隼人を直撃した事件でした。枚聞神社のご神体が揖宿神社に移されていることをみれば、旧揖宿郡全体がポンペイのような悲劇を味わったわけではなかったのでしょうが、十町の敷領遺跡(弥生中期~平安)の水田跡は全て貞觀の噴火による噴出物に覆われ、下里の橋牟礼川遺跡(縄文中期~古墳時代)には、貞観の噴火以降と特定できる貝塚の痕跡がないそうです[9]。
仁和の噴火から10年ほどを経た寛平七年九月十一日(895年10月6日,日本紀略(畧),国立国会図書館デジタルコレクション)、もしくは同八年九月十一日(896年10月25日,菅家文草,国立国会図書館デジタルコレクション)、開聞岳に瑞雲が表れたとの報せが大宰府から都に伝えられます。公卿はこぞって帝に慶賀の意を表しますが、寛平の治を敷いた宇多天皇の反応は冷静でした。
菅原道真の著した“菅家文草”に、この事象に関する天皇の詔が記録されています。
公家薩摩ノ國慶雲ヲ賀スルニ答フル勅
勅 公卿去九月十一日表状ニ曰 大宰府奏 慶雲管薩摩國ニ見ルト 有司之ヲ上志ニ考 爲政以テ和平ヲ致ス之應也 德山陵ニ至ル之感也 朕表ヲ省 以テ之ヲ恐ル 瑞ヲ聞テ以テ之ヲ懼ル 即位之後九載 今于水旱疫癘 軍兵盗賊 豈ニ是政和德至之言以テ齒牙ニ偸措ク可ン乎 君臣者一體之分レタル也 朕耻ズ可 卿等モ亦耻ズ可 抑而之ヲ止 虚賀ヲ爲コト勿耳
寛平八年十月日奉勅製(菅家文草 巻八 詔勅,国立国会図書館デジタルコレクション)
もっとも、日本紀略の十一月廿ニ日甲戌(895年12月15日)の条には “公卿左近陣ニ参。慶雲ヲ賀シ論奏ヲ上”とありますから、この現象を利用して帝に取り入ろうとする動きは抑えきれなかったようですけど。
宇多天皇は寛平御遺誡を託して897年に帝位を醍醐天皇に譲り、2年後には出家します。
菅原道真は、901年に大宰府に流されました。
道真の没後、醍醐帝による道真配流の黒幕との説も根強い藤原時平本人を含む時平派の訃報が相次ぐのですが、遂に延長八年六月廿六日(新暦930年7月29日)、
午三刻。愛宕山上從リ黒雲起ル。急ニ陰澤有リ。俄而雷聲大鳴。清涼殿坤第一柱上ニ堕ツ。霹靂神火有リ。殿上ニ侍スル之者。大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣淸貫衣燒ケ胸裂ケテ夭亡ス。年六十四。又從四位下行右中辯兼内藏頭平朝臣希世顔燒ケ而臥ス。又紫宸殿ニ登ル者。右兵衛佐美努忠包髪燒テ死亡ス。紀蔭連腹燔悶亂ス。安曇宗仁膝燒ケ而臥ス。
日本紀畧後篇 一,国立国会図書館デジタルコレクション)
落雷から三ヵ月後の九月廿九日(10月28日)には醍醐帝も崩御。
開聞岳の雲は果たして瑞兆だったのでしょうか。
最近では2000年12月に山頂付近数箇所から白色無臭の噴気が上がっているのが観察されました[10]。ノストラダムスの予言への過剰反応は一段落していたとはいえ、余韻が燻っていた時代です。
L'an mil neuf cens nonante neuf(1999の年) sept(7) mois(月)”・・・驚異の首位打者イチローが神戸グリーン・スタジアムに降臨し、松坂大輔から通算100号本塁打を放ちます。シアトルでは Safeco Field (The Safe; 現T-Mobile Park)が完成し、Mariners が Kingdome から本拠地を移しました。イチローは開聞岳に噴気の上る吉兆を予見したものか 2000年のオフにシアトルに移籍。2004年には Sisler(George Harold)の偉大な功績の記憶を蘇らせることになります。それから暫くは大リーグ人気の支配する幸せな時代が訪れました。
Root for Ohtani-Saaan!!!
N'importe quoi.
第20集 | 橋牟礼川遺跡範囲確認調査報告書(橋牟礼川遺跡Ⅷ(片野田遺跡地点・南迫田遺跡)) | 1995年3月 |
第21集 | 史跡等活用特別事業に伴う国指定史跡指宿橋牟礼川遺跡確認調査報告書(橋牟礼川遺跡Ⅺ) | 1996年3月 |
第22集 | 橋牟礼川遺跡範囲確認調査報告書(橋牟礼川遺跡Ⅹ(向吉遺跡地点・敷領遺跡)) | 1996年3月 |
- | 史跡等活用特別事業(ふるさと歴史の広場事業)国指定史跡指宿橋牟礼川遺跡整備事業 報告書:橋牟礼川遺跡Ⅺ(事業報告編) |
1996年3月 |
第23集 | 橋牟礼川遺跡範囲確認調査報告書(橋牟礼川遺跡Ⅻ(摺ヶ浜遺跡地点)) | 1997年3月 |
第26集 | 橋牟礼川遺跡範囲確認調査報告書(橋牟礼川遺跡ⅩⅢ) | 1998年3月 |
第30集 | 遺跡範囲確認調査報告書(橋牟礼川遺跡ⅩⅣ・上吹越遺跡) | 1999年3月 |
第32集 | 範囲確認調査報告書(橋牟礼川遺跡XV・敷領遺跡・殿様湯跡) | 2000年3月 |
第53集 | 指宿駅西部土地区画整理事業に伴う発掘調査報告書 Vol.1 | 2014年3月 |
第56集 | 橋牟礼川遺跡総括報告書 | 2016年3月 |
第60集 | 指宿駅西部土地区画整理事業に伴う発掘調査報告書 Vol.2(橋牟礼川遺跡(Ⅵ区・Ⅶ区)) | 2018年3月 |
第65集 | 橋牟礼川遺跡(Ⅳ区)3 | 2021年3月 |
第69集 | 橋牟礼川遺跡(Ⅴ区)4 | 2023年3月 |
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