潟口船溜り
天保十四(1843)年、島津家27代斉興の代の二反田川河口改修工事に際し、調所広郷の進言によって肥後から招かれていた石工岩永三五郎等によって設営された船渠です。増築の規模は330間(600m)。字宮に至る二反田川25町(≅2.73Km)、及び排水用閘門までの五間川沿いもこの時に整備されています。
潟口から湊の濱崎家界隈までは水路で結ばれていました。島津家別墅は寛政五(1793)年に長井温泉に造営されましたが、密貿易で島津家の財政再建を支えた政商濱崎家の邸宅にも島津氏御座ノ間があり、ここに向かう際にも、この水路が利用されたと思われます。
照國公(島津斉彬)指宿八景御詠のうち“南浦帰帆”は、現在の指宿港辺りからの景色を詠んだものとすることが無難であるとは思われるものの、“幸”は漁獲量で測られる“恵み”であるとは限らず、船溜りに荷揚げされて湊の蔵まで水路で運ばれる島津家御用の積荷であった可能性もあるのでは、と考えるのは下司の勘繰りでしょうか。
船溜りと岩永三五郎が架けた閘門橋を架け替えた五間川橋周りの石垣は布積みで、天保の改修工事の遺構は二反田川上流にも残されています。五間川の両岸と水路跡は谷積みとなっていますが、何れも阿多カルデラ由来の荒平石の貴重な構造物です。
島津家御当主が船で指宿に着かれた際には、船溜りから二月田別墅まで、乗換えの小舟を馬に曳かせて上られたという話が伝わっていますが、記録に残されている斉彬公の行程は、嘉永四(1851)年が頴娃石垣から山川洲崎(津口番所)、指宿渡(五人番)の臺場巡検後に湊の濱崎邸入り、安政五(1858)年は“御乗切ニテ指宿二月田ヘ被為入”、出立も“又 御乗切ニテ御帰殿”と、その様子を窺うことはできません。
船溜り一帯は、かつて“汐入”と呼ばれた湾入で、天保の改修工事までに3次にわたる干拓・埋立工事が実施されたことで、現在の地形となりました。当初は塩田開発を目的としたもので“塩屋”、“塩浜”といった字名が残っており、船溜りに近い河口に架けられた橋も塩浜橋です。その後、目的は耕作地の確保へと移行し、字“一番掛込”、“二番掛込”は、初期の開墾地であったことの名残です(鹿児島県維新前土木史,鹿児島縣土木課,1934年)。
おひて吹く 風にまかせて帰る也 いづれの舟か 幸の多かる
濱崎家の造船所の所在地は明らかではありませんが、湊に東西38間(≅69.1m)、南北57間(≅103.6m)の規模のものが設けられていたと伝わっています。船場には材木小屋、鍛冶小屋、船大工の住宅も備えられていたようですから、仮にこれが濱崎邸(現 ㈱NTTフィールドテクノ事業所ビル)最寄りの場所にあったとすれば、“御座ノ間”の見晴らしはさほど良いものではなかったと考えられます。“南浦帰帆”を見るためには海岸に出る必要がありますが、船場には海辺までの木柵が張り廻らされていたようです。旧濱崎邸の前の道を海岸に出て、北に110m(≅60間2尺)ほど進めば太平次公園の南側です。戦前まで、この辺りでは和船が建造されていたとのことです。とすれば、造船所に遮られずに視界が開けるのは、現在の指宿港防波堤の内側、現在の太平次公園の北側です。
1993年8月から9月にかけて実施された堤防・船着場跡調査結果が、島根大学附属図書館・奈良文化財研究所の“全国遺跡報告総覧”で公開されている揖宿土木事務所・鹿児島県指宿市教育委員会 “二反田川河川敷堤防跡(指宿市埋蔵文化財発掘調査報告書第19集,1995年3月)”にまとめられています。
山田爲正日記類,斉彬公史料 第四巻,鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1983
斉彬公史料 第三巻 一〇四 指宿二月田御入湯中ノ形況,鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1982 。指宿入りは安政五年戊午三月六日(1858年4月19日)、出立は四月九日(5月21日)でした。“御乗切”は騎乗の意で“御供ノ者モ皆馬上ナリ”とあります。
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